へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

鬱金香・3~4

鬱金香・3~4 本文

3.

「え?」
 ぼんやりしていたのと、思いがけない父の言葉に、私はすごく間抜けな声を上げた。父が何を言ったのか、よく理解できてなかった。
「今……なんて?」
 だから、わたしは「once again《もう一度》」の意味を込めて訊き返した。しかし父の言葉はまったく同じものではなく、さらにかみ砕かれて私に差し出された。
「家を、出たくはないか? ……という意味なんだがね」
 今度は理解できた。しかしすぐには信じられなかった。
「どういう風の吹き回し?」
 私は自分の、いぶかしんだ声を聞いた。そのトーンの低さに内心びっくりしたが、父はさほど驚かなかったらしい。
「お前も暮れには二十歳《はたち》になるしな」
 まるで明日の天気でも告げるみたいに、父は言った。そしてさらりと自分の言葉を補足する。
「このあたりで、少し独立するのも、社会勉強の一つだと思ってね」
 思っても見なかったことを言われてちょっとびっくりした。だがその言葉にはなんとなく賛同できた。
 リリアン女子大を卒業したあとのことは、まだなんとなく決めることができないでいるけれど、たぶん、私は、何になるにせよ、卒業と同時に家を出る。…そう漠然と考えていたから。だったら、それが二年そこら早くても、何の問題もないんじゃないだろうか。
 だから、たった一つ、でもいちばん心に引っかかることを訊いた。
「お母さんは? お母さんは、反対なんじゃない?」
 三年前の栞との一件を、母はまだ引きずっているように思う。私が栞と駆け落ちをしようとしたことは、お姉さまと蓉子、そしてごくわずかな人たちの心の中にとどめられて、他にはまったく漏れてなかったけど、その少し前、高校二年の二学期の成績が、見るも無惨に転げ落ちた原因に栞がしっかり絡んでいたことは、母にとってはかなりの衝撃だったらしい。
 あれから三年たった今でも、私がまた何かしでかすんじゃないかという不安をどこかに抱えているのが、言動の端々から伝わってくることがままある。たぶん母が安心しているのは、蓉子や江利子や祥子たち旧山百合会のメンバー、そして同じゼミのカトーさんと会うってわかっている時だけなんじゃないだろうか。そんな感じ。
 だから、まだ信用できないだろう娘のひとり暮らしを、母が許容できるなんて思えなかった。
「お母さんは納得してるよ」
 父は淡々と言った。
「時間はかかったがね」
 説得したのか。あの母を。
「もしかして、ここのところ早めに帰ってきてたのは、そのことをお母さんと話し合っていたの?」
 そんな、ちょっと間抜けたことを訊くと、父はゆっくりとこちらに顔を向け、素っ気ない様子で無言のまま一回だけはっきりと頷いた。答えはYES。
 私は長いため息を吐き出すと、正直に思ったことを口にした。
「よく、納得させたね」
 私は言外《げんがい》に三年前のことを忍ばせて、缶コーヒーをほんの少し口に含む。冷めかけたそれとは微妙に違う苦みが、口の中にじわりと広がった気がした。
 父はあのことをどこまで知っているのだろう。母はどのように父に伝えたのだろう。
 母は父に何でも話をする人だから、あの呼び出しのことを父が知らないはずはないだろう、と私は思っている。しかしその話は、今の今まで一度も父の口から発せられたことはなかった。少なくとも私の前では。
 脳みそが高速回転して、ほんのわずかな時間でそんなことをぐるぐる考えていると、横から再び父の子が聞こえた。
「生きているなら、どんなものでも転んだままではいられない。そうは思わないか、聖?」
 その問いかけに、私は父が言わんとしていることを正しく理解した。
 挫折したなら、それを糧にして立ち直ればいいし、なくした信用は、長い時間がかかっても取り戻せばいい。失敗はいつか、成功につなげればいい。
 だから。
 父は、私に、チャンスをくれようとしているのだ。
 私は目の鱗と一緒に、持ち続けることに疲れて飽きた荷物を肩から下ろしてもらった気がした。
「うん…。そうだね。……そうだと思う」
 私は缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。今度はいつもの苦みと香りだけだった。
 父がかすかに笑う気配がした。
「もちろん、理由はそれだけじゃないがね」
 父の言葉のあとにズズッと缶をすする音が追いかけて聞こえた。父もコーヒーを飲み干したようだ。
「少し冷えてきたな。入ろうか」
 父は車から尻を浮かせて立ち上がると、運転席側へ歩いていき、ドアを開けて車内に滑り込んだ。
 まったくもって素っ気ない。自分もそういうところがあるけど、ここまで素っ気なくはないんじゃないかなと思いながら、父の後を追うように、私も立ち上がって助手席のドアを開けた。
「だったら、他の理由はなに?」
 私は助手席の背に身を沈めながら、さっきの話の続きをうながす。父の言葉がさっきから耳に心地よくて。もっと聞いていたい。そんな気分になっていた。だが、父の口から発せられたのは、思いもかけない言葉だった。
「お前、高等部まで、窮屈だったろう? ……生きることに対してとか、他にもいろいろ」
「え?」
 否定はできない。すくなくとも高二くらいまでは。
 しかし驚いたのはそのことじゃなくて、私とほとんど接点のなかった父が、それに気が付いていたというか、見抜いていた……ということだった。あれだけ干渉していた母ですら気が付いていないことだったのに。
 父は言った。
 私が幼稚舎の頃に、同級生(さすがに父は、それが誰だかまでは知らなかった。もちろん「でこちん」江利子だけど)ととっくみあいの大ゲンカをしたと聞いた頃から、私はリリアンに向いてないのではないかと思っていたそうだ。しかしだからといって、途中でリタイヤさせて公立に通わせるという決心をするには、いかんせんリリアンは名門すぎた。
 また自分の妻——つまり私の母——が、我が子がリリアン幼稚舎に入舎したことをとても喜び、また、通っていることを誇りに思っていたことも、父の決心を鈍らせるのに一役買っていたらしい。
「もちろんそれは私の優柔不断のせいで、お母さんのせいではないがね」
 父は母をフォローすることも忘れてはいなかった。
 リリアンでの生活が長くなるにつれて私が環境に慣れ、人見知りも含む様々な問題が改善されると思いきや、反して閉塞している様子がだんだんと深刻になっている(私自身にとってみれば、厭世観が募っていってただけなんだけど、端からはそう見えたらしい)のにも、気づいていたのだとか。
 どうにかしなければと思っているうちに、父自身が会社を興したりなんたりで手一杯になってしまったため、転学の最後のチャンスだった高等部への繰り上がり時期には、そんなことを考える余裕もなかった。……とのことだった。
「だから、お前がリリアン女子大を受験したいと言ったときは、正直驚いたよ」
 父はそう言って、自分の座っている椅子の背を少しだけ倒し、話をしているあいだ手の中でもてあそんでいたコーヒーの缶を、後部座席の足元に置いてあるくず入れの中に、そろりと入れた。
「それとだな……」
 父は、椅子と体を戻しながら、言葉を続けた。
「私たちと暮らしていくのにも、気詰まりを感じているんじゃないか?」
 私が答えにくいことをズバズバ訊いてくる。もうさっくりと、気持ちよく。袈裟懸けに切り捨てるみたいに。
 しかし、気まずさを感じているのか、父はこちらを見ない。でも気配は確実にこちらを向いている。だから、ここまでストレートに訊いてくるのをはぐらかすのは、とてもまずいことのように思った。父に対して失礼…そんな感じ。
 私はやや口ごもりながらも、心の内を包み隠さず答えた。
「父さんはともかく、お母さんはちょっと。…もう少し、娘を信用してくれても良いんじゃないかなー…とか」
 もう高校生の時のような強い反発心はなかった。だからついこんな口調になる。まったく、最近とみに道化が身に染みている。
 私がそんなことを考えているなんて知るよしもないだろう父は、私が気を使って表現をゆるくしたのだと勘違いしたらしい。眉を片方は上げ、片方は下げるといった器用な表情を作って苦笑した。
アレは私にとって、この上なく最良の妻だが、やはりお前にとっては『いい母親』とは言えないようだな」
 うっはー……。
 父が母をこよなく愛しているのは知っているが、改めて真声(真顔じゃない。父は苦笑しながらも、声だけは至極まじめな口調で喋っていた)で「最良の妻」なんて言われると、こちらが赤面してしまいそうになる。
 とてもまじめで、私と似ている部分は少ないと思う父だが、こういう表現とかを平気でするところは、やはり血がつながっているのだな、と感心する。すくなくとも私と母よりは共通項が多いんじゃないだろうか。
 実際、私は母のような「尽くすタイプ」の女性は嫌いじゃない。母がわずらわしいのは、単に過干渉の上に彼女が考える枠の中に私をはめたがるからなのだ。母が用意している枠は、私にはかなり窮屈でサイズが小さすぎる気がする。
「だからというわけではないが……」
 しばらく黙っていた父が、話の続きを再開した。
「お前の世界をいま少し広げるために、私たちという枷を一度外してみてはどうだろう、と私は考えたわけだ」
 今度は父は視線を外していなかった。
「それで、ひとり暮らし…というわけ?」
 父の真摯な視線を、心を、はぐらかしてはいけない。私は思ったままを言葉に乗せた。
 父ははっきりと頷いた。
「お前が望むなら、リリアン女子大を卒業したあと、共学の他大学にまた進学するのも構わないと、私は思っているよ。もっと広い世界に目を向けるのは悪いことじゃない」
 私は心の中で父の言葉を反芻した。
「それは……」
「大学院で文学を極めるのもいいし、語学を極めるのもいい。実はウチの事業を、五年後をめどに海外へも広げようかと考えているんだが、お前にその気があるなら、私の手伝いをしてくれると助かるかな。もちろん、リリアンを卒《で》たあと、どこかの会社に就職するならそれもいい」
 お前の人生なのだから、お前の好きにすればいいさ。
 父はそう言葉を重ねた。
 高二までの私だったら、それはただのお節介で私を枠にはめ込もうとする不快な行為にしか感じられなかったが、今現在のそれは父の心遣いなのだと理解できる。突き放しているようにも聞こえるけれど、私がどこに転んでもいいように父が舞台を整えようとしてくれているのだろう。
 それはきっと、親心というやつなのだ。
「うん。わかった。ありがとう。ちょっと腰を据えて考えてみる。ひとり暮らしのことも、今後の進路のことも」
 今までの私だったら、これ幸いにと二つ返事をしただろう。いろんな思惑もある。「ない」とは決して言わないし言えない。
 実際に「ひとり暮らし」の単語が父から発せられたとき、ちらりと頭をよきったとあることが、正直な話、あったりする。でも二つ返事はできなかった。父がそこまで私のことを考え、そして母を説得してくれた。だから私は父の気持ちに真摯に向き合って、答えを出さないといけない。
 ひとり暮らしをするなら、しないなら。
 選択肢は二つ。
 でもそこに至るまでに私が考えて決心しなくてはならないことは、さらにそれを何乗にもした回数を重ねなくてはならないだろう。
 私はあらためて父を見た。父はまっすぐ私を見ていた。
 お互いの視線がぶつかり合う。
 今、父の目には私はどう映っているだろう。私の目に映った父は、ひどく真剣なまなざしで、そしてやさしい光を宿していた。
 生まれて初めて、男の人の顔をきれいだと思った。
 どのくらいふたりでそうしていただろう。自分が感じているほど長い時間ではなかったかもしれない。
 やがて父は薄く笑い、「帰るか」とつぶやいて、車のエンジンをかけた。車内はずいぶん冷えていた。
 私は父のコートを羽織っていたのでさほど寒いとは思っていなかったけど、父は寒かったのか、数分の暖機運転のあと、エアコン暖房のスイッチをオンにした。足元の吹き出し口からあたたかい風が流れ出した時、車はまた滑るように動き出した。
 車は私たちの家にむかって山道を下っていく。私はドアに肘を、そして同じ腕の延長にある手で頬杖をついて、運転する父を見ていた。今度は、もし父がこちらを見ても、気まずい思いはしないだろう。
 山を下る道中、私は展望広場で父が喋ってくれたことを、ひとつひとつ頭の中で反芻した。
 そして、あることを訊いてみようかどうしようか、ちょっとだけ迷っていた。

4.

 些末なことをぐずぐず悩むのは「佐藤聖らしくない」。
 だから私は、父に質問を投げてみることにした。
「ねぇ、ひとつ訊いてもいい?」
 私は父が返事をする前に言葉を続けた。
「どうして会社を興《おこ》そうと思ったの?」
 父は視線をこちらに一瞬だけ投げてよこした。
「……めずらしい質問をするな」
 車は走っていたので、父は前を見ながら話を続ける。
「なぜ会社を興そうと思い立ったかなんて、質問をする人はあまりいないね」
 父は楽しそうに笑った。
 そう言われて、ずいぶん昔に私も同じようなことを、高等部そして大学の後輩でもある福沢祐巳ちゃんに言ったのを思い出した。
「結局は、私も爺さんの息子……ということになるんだろうな」
 対向車のヘッドライトが、私たちの姿を一瞬だけあらわにした。
「会社という枠組みの中にはめ込まれて一生を終わる。そんなことが、ある日とても息苦しく感じたんだよ」
 そう自覚した瞬間から、いつかは一国一城の主になってやろうと、がむしゃらに働き始めたのだと、父は語った。
 会社を興すための資金と技術。それを得るために。
 ひたすらに働いてろくに顔も見ない父の中にはそんな強い思いがあったのかと、私は新鮮に驚いた。結局、私は誤解していたのだ。いや、子供すぎて視野が狭く、何も見えていなかったのだ。
 父はいないものだと思っていた。いるけれどいないもの。私は今までどれくらいのものを見逃して、あるいは目をふさいで生きてきたのだろうか。父に対してでさえそうなのだから、母に対してもかなりあるに違いない。
 思考の中に沈んでいると、思いがけない父の言葉が耳に飛び込んできた。
「私はね、聖。ずっとお前と爺さんがうらやましくて仕方なかったんだよ」
「……え?」
 私は思わず声と顔を上げた。
「爺さん——私の親父は、自由奔放な人でな」
 私の知らない話が始まった。
 私は祖父と直接会ったことがない。私が生まれる前よりもずっと以前に亡くなっているからだ。
「厳密には……」
 と父は言う。さらに時間をさかのぼって、父が今の私くらいの歳《とし》の頃に亡くなったのだろう、と思われていたのだそうだ。
 つまり。
 祖父は父が中学生になるかならないかの頃、祖母と父を置いて、ふらりと家を出たまま帰ってこなかった……と。
 父は自分の父親——つまりは私の祖父——が、なんの仕事をしているか知らなかったと、私に語った。常に留守がちで、たまに帰ってきたときには、息子に抱えきれないくらいの玩具や珍しい食べ物を、妻——私にとっては祖母——にも高級な着物や装飾品を持って帰ってくる。そんな人だったらしい。
 祖父が在宅しているあいだは、食生活も豊かになる。祖父が不在のときは「爪に火をともすような」生活をしていても、戻ってくれば、祖父が望むレベルに生活水準が引き上げられていた、ということだ。
「いまだに爺さんの仕事が何か分からないが、相場師のようなことをしていたんじゃないかなぁ」
 父は苦笑しながら言った。一仕事終えて、それで得た大金を懐に、たくさんのお土産を手にして、意気揚々と帰宅していたのではないだろうか、と。
 幼いころの父は、父親が帰宅するのを心待ちにしていたが、成長するにしたがって母親の苦労が理解できるようになり始めると、だんだん疎ましく思う存在になっていったということだった。
 祖父が持ち帰る大金は、本人が在宅している2、3ヶ月の間の贅沢な生活のためにほとんど使いつくされる。そのため、祖父が仕事に出かけると、祖母は一家を支えるために働きに出ていたそうだ。しかし長くて半年も継続して働けない祖母(祖父は祖母が外で働くことを嫌ったそうだ)は、もちろんしっかりした定職に就けるはずもなく、日雇いや内職で細々と日銭を稼いでいたということである。
 夫が不在の時は家族のために外で働き、夫の在宅時にはその夫のために家の中で働く。
 父は自分の母親の、そんな常に働きづめの姿しか憶えていない、と言い、そして衝撃的な言葉を紡いだ。。
「そしてだな、とある年の秋に。……親父は仕事にでかけたまま、それっきり家に戻ってこなかったんだよ」
 …………。
 待てど暮らせど父親は、夫は、帰ってこない。その事実は確かに母子ふたりの生活に打撃を与えたが、夫が戻ってこなくなったことで祖母は安定した職を得ることができた。このことは一家にとって不幸中の幸いだったらしい。
 祖父が戻ってこなくなって1年ちょっとが過ぎたころ、祖母は伝手《つて》があって保険の外交員を始めた。それは予期せずして母子家庭になってしまった一家に、かなり安定した収入をもたらした。祖母はがむしゃらに働いて、父を大学にやり、そして息子が卒業し、就職をしてまもなくいきなり倒れ、気が抜けたようにそのまま亡くなったそうだ。
 祖父が自宅に帰ってこなかった本当の理由は、今もよくわからない。と父は言った。
 祖母が亡くなり、やがて父が結婚する少し前に、祖父はその消息が知れた。警察から死亡した旨が父に伝えられたのだそうである。
 祖父の遺品は、かなりの金額が入った預金通帳と郷里に残した家族の住所と電話番号。そして10年間つけることのできる日記帳が3冊。たったそれだけだったそうだが、遺品の日記に書かれた1日につきたった1~2行の書き付けから、どうやら仕事に失敗して負債を抱え、家族に迷惑をかけないために帰宅しなかったことが判明したのだそうだ。
 その後なんとか負債を返したものの、その頃にはあまりに時間が経ちすぎていたために、結局帰るに帰れなかったのではないか、と父は推測したということだった。
 遺品の日記には、事業に失敗したことの後悔と反省、残してきた家族に対する懺悔などが書かれていたそうだが、負債を返し終わりしかし帰宅を諦めたあとの記述は、当時の父が激怒し、果てにあきれたほどの奔放さあふれる内容だったらしい。
 渡すあてもない家族のためにふくれあがる預金は、時にごく少額ずつ切り崩されて、祖父をふらりと放浪させていたようだ。
「結局は、ひとところに落ち着けない人だったようだな、親父は」
 そう言って父は苦笑し、祖父の話をいったん締めくくった。
「親父が奔放なぶん、お袋は堅実な人だったんだな。現実を見据えて今何をすべきか分かっていた人だったと言うべきかな」
 そんな母親の姿を見て育ち、奔放な父親を憎んだ父は、なによりも幸せな家族を作り上げることを考えていたそうだ。
「しっかり働いて、お袋に楽をさせてやろうと思っていたのに、それが叶わないうちに亡くなってしまったからなぁ」
 父はどこか遠いところに思いを馳せるように言った。
「お母さんと結婚して、さらにお前が生まれた時、親父の二の舞だけは踏まないようにしようと、がんばって働いていたんだが」
 それは私だって知っている。サラリーマン時代の父は、朝早くに仕事に出かけ、いくら遅くなってもきっちり帰宅する人だった。帰ってこない日は出張に行っている日で、それでも出先から日に1回はきちんと連絡をよこしてくる律儀な性格だ。そしてそれは今でも変わらない。
 昔はその律儀さがわずらわしくもあったのだけど、今は感心どころか感動すらおぼえる。そういったことがひたすら面倒くさい私とは対照的だ。
「しかしだな……」
 父はぼそりとつぶやく。
「結局は父親不在の家庭にしてしまっていたからな。爺さんとなんら変わりがないと、自分自身をふり返って気が付いた時には愕然としたよ」
 父の、自嘲するような、かすかな笑い声が聞こえた。
「うーん。……確かに、あまり家にいるって感じじゃなかったわよね。休日に家族でどこかに出かけた……って記憶もあまりないもんね」
 私は少しおどけて言った。
「すまんな」
 父の目が一瞬だけこちらを見た。
「ううん。あまり気にしたことないし」
 私はくふん、と鼻で笑って、外の流れていく風景に視線を転じた。
 高等部一年の頃までの記憶が、私は薄い。世の中がすべて灰色に見えていたからだ。鮮明に憶えていることは、両手両足の指を足して倍にしても余るんじゃないだろうか。だから、父があまり家庭をかえりみず(と私は思っていた)に働きづめで、父親不在の家庭だったという事実は、私にとって特筆すべき事柄ではなかった。どちらかというと、平坦な記憶に埋もれてしまっている。……そんな感じ。
「我が家はそれが当たり前だって思ってたから、気にも止めてなかった……ってのが、真相だけど?」
 私は再び父に視線を返し、肩をすくめて見せた。父がそれに気が付いたかどうかはわからない。さきほどから信号は青や黄色の点滅が続いていて、車はときおり減速はするものの、ずっと走っているから。
 父はしばらく無言だった。私ほどではないが色素のやや薄い瞳には、何が映っているのだろうか。
「なにがきっかけだったのはわからないが……」
 父はまた静かに語り始めた。私は父の言葉に集中する。
「三年の秋くらいから、いい感じに変わったな」
 それは私の高等部時代のことを指しているのは明白だった。
「……そう?」
「ああ。余裕ができたというかな。……とにかく雰囲気がな」
 秋——と言うなら、志摩子と姉妹《スール》になった頃だろうか、それともその少しあと、祐巳ちゃんが山百合会に来て以降だろうか。なんとなく後者のような気はするけど。
「本来お前が持っている、いい部分が表に出てくるようになってからだな、爺さんとお前が重なって見えるようになったのは」
「……は?」
 本日何度目かの驚き。さすがにもう、ネタは尽きていると思っていたんだけど、なかなかそうは問屋が卸《おろ》さないらしい。
「外見が似てるの?」
 間抜けた質問だとはわかっていたが、とりあえず訊いてみる。少なくとも、男と女の違いはあるわけだし、時代もかなりちがっている。だったらやっぱり、外見がまず似ていたのかなと、私は単純に思ったわけだ。
 しかし父の答えは違っていた。
「いや。そうでもないな。古い写真で見る限りでは、ひい爺さんに似ているかな、お前は」
 ……それは。私にとっての曾祖父なのか、それとも父にとっての曾祖父なのか。
 ちょっと判断がつかないけど、写真が残っているというなら、私の曾祖父だろうか。しかし何代か前にはモンゴロイドじゃない人がいたってことだから、父にとっての曾祖父の可能性も捨てきれない。
 父は話を続ける。
「行動の端々とか、ふとした表情とかがな。親父がいるのかと錯覚することが多くなってきてな。もちろん、すぐにお前だと気が付くんだが」
 それはナカナカに失礼な話だ。花も恥じらう乙女(?)をつかまえて、自分の親父に見間違うはないだろう。
「だからまぁ……。お前はもっと広い世界にいるほうが、いいんじゃないかな、とね。……確信に変わったのは、いつだったろうかな」
 父は左手を自分の顎に添えて、「うーむ」と小首をかしげる仕草をした。
 恥ずかしさがあるのか、それとも私があまり喋らず聞く体勢になっているからか、父はいつになく多弁になっている。
 いつの間にか車はつづら折りの道を下り終え、私たちの住む街へむかって走っていた。
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