へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

鬱金香・1~2

前文

 鬱金香——それはチューリップの和名。
 今もそれを、父と母は大事に大事に育てている。
 まるで、娘である私の身代わりであるかのように。
 でもそれは私にとって、決して嫌なことではないのだ。

 これはその、鬱金香にまつわるお話。

1.

 その年。…そう、大学二年の初冬のある日のこと。
 私こと佐藤聖は、自宅での夕食をすませて自分の部屋にもどり、勉強をするでなく課題のレポートを書くでもなく、たいがいの日常においてそうしているように、ベッドの上に寝転がって、携帯音楽プレイヤーから生えた耳掛け式のイヤフォンで、音楽を聴きながらだらだらとくつろいでいた。
 さほど多くは入れていない曲たちが何巡目かのリピートを再生し始めたころ、部屋のドアがコンコンコン…と乾いた音を三回奏でたのが、音の隙間をぬって聞こえてきた。もちろんドアが自分で音を発するわけはない。間違いなくノックの音である。
 こんな時間にノックなんかしてくるのはたぶん…と、つい一時間ほど前まで一緒に夕食をとっていた母の顔の微妙な不機嫌顔——しかしその理由は私は知らない——を思い浮かべ、一体どんな用事で何を言われるのだろうかと、あまり益のないことを想像して、ちょっとうんざりした。それでも努めて何も気にしていない…というよりも、のんきなふうを装い、扉の向こうにいるであろう人物にむかって返事をする。
「どうぞー」
 ああ、こんな気のない返事をするから、時折とはいえ、母から小言を言われるのかもしれない。
 イヤフォンを外しながら、そんなことをふと思う。
 しかし、ゆっくりと静かに開いたドアの向こうに現れたのは、私の予想に反して母ではなく、もうひとりの家族——つまり、父だった。夕食の時にはいなかったから、私がこの部屋に戻ってから帰宅したのだろう。
 思いがけない人がそこにいたので、私は少なからず驚いて、戸口に立っている父をまじまじと見た。
 父も、形容しがたい、やや困惑したような表情でこちらを見ていた。父の視線が、ベッドに横たわる私の姿を、頭のてっぺんからたぶん足先まで、たっぷり二往復なめる。
 私は起きあがってベッドの上にあぐらをかき、小首をかしげて父に問いかけた。
「なに?」
 目線で「何か用?」と問いをかさねると、その態度や姿勢にあきれたのだろうか(仮にもお嬢様学校のリリアンに、幼稚舎から数えて、この時点で実に16年も通っているのだ、私は)、父は目を細めてうすく笑い、口を開いた。
「聖、来なさい。話がある」
 そして私もよくそうするように、あごの先をクイっと動かして、無言で部屋の外を示した。
(あー……私の都合はまったく無視なのね)
 そうは思ったけれど、このだらけきった様子を見られてしまったら「たった今から都合が悪くなりました」などと言ってみても通用しないだろう。父は仮にも会社を経営する社長サマだ。人数こそ多くはないが、もちろん社員もいる。人の状態や人そのものを見る目は、私よりもはるかに確かなのだ。ここは逆らわないほうが懸命だ。
 そう判断した私は、手の中でもてあそんでいた携帯プレイヤーのスイッチを切って、すでに階下へ行こうとしている父のあとを追った。
 私の足下で、階段がぱたぱたと音を立てている。それが聞こえているであろう父は、娘のことを信用しきっているのか、それとも自分の指示に私が従うのが当然と思っているのか、後ろをふり返らずに階段を下り、それにく廊下をまっすぐに玄関のほうへと歩いていく。その歩みはよどみない。
 私は、玄関のわきに入り口がある、父の書斎(兼、仕事用の応接室)が目的地だろうと思っていた。しかし父は、壁にはめ込まれた焦げ茶色の厚いオーク材の扉には目もくれず、そのすぐ先にある玄関の上がり框《かまち》を下りて、靴をはき始めた。
 玄関脇の下足箱の上に無造作に置いてある、車のキーやら事務所のカギやらいろいろがまとめてあるキーホルダーを手にすると、一緒にぶら下がっている小さな鹿角の靴べらに、過不足なく仕事をさている。
 予想が見事にはずれた私は、外に出るには薄すぎる格好だったのでせめて上着と財布を取ってこようと思い、いったん部屋に戻ろうと視線を階段の方に向けた。
「いいから。これを着なさい」
 父の声が私を呼び止める。
 ふり返れば、私にむかって差し出された父の手に、枯れ藁《かれわら》色の、父の秋コートが握られていた。玄関に置いてある外套掛けから取ったのだろう。
 半ば強引な父に圧倒されたけれど、父が差し出した秋コートは実は密かに私のお気に入りだった。父がいない時に外套掛けに下がっていれば、ちょっと大きいけれど、こっそり借りて外出することもある。だから私は素直にそのコートを受け取って羽織り、それから靴を履いた。そしてそのあいだ父の様子が気になって、チラチラとそちらを盗み見た。
 父は、私が靴をはき始めたのを一瞥すると、また素っ気なく、玄関扉の外へ吸い出されるように出ていく。手には先ほどのキーホルダーが握られていた。
 なるほど車でお出かけらしい。
 父子団欒《おやこだんらん》なんてほとんどしたことないのに、どういう風の吹き回し?)
 そんなことを考えながら玄関から出て車庫の方へ行くと、果たして父は仕事にも使っている濃い緑色の大型車にエンジンをかけ、私が乗り込むのを運転席で待っていた。

2.

 車は静かに走り出す。まるで氷の上を滑っているかのように静かになめらかに走る。車の大きさや外見からは想像もできないほど、揺れないし音もうるさくない。もちろん急ブレーキなんてあり得ないんじゃないだろうか。それはたぶん、父の性格そのものなのかもしれない。
 ほら、車の運転はその人の性格が出るっていうから。
 私にはこんな運転はムリ。いつも運転している母の「黄色いブーブー」でも、もちろんこの車でも。
 車内は走っている車同様とても静かだった。BGMどころかカーラジオも流れていない。父は運転中に音楽やラジオをかけない主義なのかもしれない。まぁ、仕事用も兼ねているし、ニュースを聞くことくらいはあるかもしれないけれど。
 窓の外を夜の街が、前から迫ってきて私たちの手前で両脇に逸《そ》れ、すり抜けるようにして後ろに流れていく。無数の流星の中を私たちは走っている。そんな感じがした。
 人工の光の洪水は、時間と距離が積み上げられるにつれ、だんだんと少なくなっていった。車は郊外にむかって走っているようだった。
 車が生むかすかな振動に揺られながら、時おり父の方を見たけれど、父はまっすぐに前方を見つめていて、声をかけるのはちょっとはばかられた。
 ふだんはあまり似ているなんて思っていないのだけど、こうして間近で横顔を見る機会があると、私たちはやはり親子なんだなと思う。父の横顔が夜の光に透けて、母よりもずっと睫毛《まつげ》が長かったり、彫りが深い顔立ちをしているのが、はっきりと認識できた。
 見とれていると、赤信号で車を停車させた父の顔がゆっくりとこちらに向きはじめたので、私はとっさに視線を外して前方を見た。なんとなく視線を合わせるのが恥ずかしかった。
 『話がある』と言っていたが、まだ何も話してはくれない。きっとその時が来たら、父の方からちゃんと話してくれるだろう。だから今はこの静かなドライブをお互いに堪能すればいい。
  そう思ったのだっだ。
 実のところ、私と父はふだんあまり接点がない。
 どちらかが、あるいはお互いが、相手を嫌っている…というわけではない。単に父は、私が幼い頃から多忙な人——単純に言えば仕事一筋な人——で、サラリーマンだった時代も、社長業の今も、仕事・仕事・仕事……で家にいたためしがないのだった。
 運動会や父兄参観、入学式・卒業式なんかも来たことはない。——いや、リリアンの幼稚舎の入舎式には来てたかな。それくらい私と接点がないのだ。もちろん帰りが早ければ一緒に食事をするけれど、私も父も、必要以上にしゃべるタイプじゃない。
 三年ほど前まで、母にすべてを任せっぱなしで家庭を顧みない(ように見えていた)父を、私はあまり好いてはいなかった。また夫不在のためにできたであろう心の隙間を、時折 子供で埋めようとする母のことにもうんざりしていた。
 あれからそれなりに時間が経って、自分が丸くなってきたというか、周りに対して寛容になってきたというか、生きることにやっと喘がなくなってきたというか……。そんな感じで、あの頃のような尖った感情はほとんどないけれど、それでも必要以上に積極的に家族と接触しようとは、私は思わない。
 だからこうして父とふたり、夜のドライブに出かけるなんて、夢にも思っていなかった。というのが正直な感想だ。……明日は雨でも降るんじゃないだろうか。
 そんなことを考えていた。
 
 車は今や舗装された山道を、くねくねとつづら折れに曲がりながら上っていた。道の両サイドから闇が重く垂れ下がっている。どうやら自由奔放に伸びた木が、手入れもあまりされないままに、空を覆い隠しているようだった。そんな木々の間から、時折思い出したようにぽつりぽつりと街灯が顔をのぞかせた。
 そろそろ連続するカーブにも飽きてきたちょうどその時、突然進行方向の視界が開けた。
 父はその場所に深く入り込むと、走り出したとき同様、静かに車を停めた。
 見晴らしのいい高台にあるちょっと広い場所ならたいていのところがそうであるように、この広場も多分に漏れず展望台になっているようだった。車の助手席に座っているにもかかわらず、目の前の視界いっぱいにふもとの夜景が広がっていた。
 光点は均一に広がっているわけではなくて、様々な色の光が密集して輝いているところあり、反対に単色の光がぼんやりとたたずんでいるような風情のところありで、とても幻想的だった。
 この高台は人があまり来ないところなのか、それとも危険がほとんどないところなのか、さっと見渡した範囲には、高い塀やフェンスは設置されていなかった。
 もちろん、私は初めて来た場所だ。
 あまりにきれいな夜景とこの場所の静けさに、私は思わずため息をもらした。
 それから車に取り付けてある、青白い光を放っているデジタル表示の時計を見た。自宅を出てから一時間ちょっとというところだろうか。部屋や家を出る時にしっかり時間を見たわけではなかったからはっきりとしたことはわからないけれど、それでもそれなりの距離を走ってきたことは確かのようだった。
 自宅近くにこういった場所はないし、近場に来るのにわざわざ遠回りして、私に場所を悟られないようにする意味もないと思う。それ以前に、そういう回りくどいことをする父ではないような気がする。私は運転席に座っている父を見た。
 父は自分の上着の内ポケットをまさぐっていた。そしてタバコ入れを取り出した。
「ちょっと一服してくる」
 ポケットから出したタバコ入れを手の中でくるくる回しながら、父はドアを開けて車外へ出た。
 まだ話をする気分ではないらしい。
 ドアを閉める父を見送りながら、私はそう判断する。運転席側のドアのすぐ外が一瞬小さくオレンジ色に光り、そしてまた闇に戻った。
 父が一服を終えるまでのあいだ、このままぼんやりと待つのも退屈だろうと思ったので、私も車外に出ることにした。一時間以上もほとんど同じ姿勢だったから、体を伸ばしたかった。
 外に出てまずしたことは、手を頭の上で組んで、その手を思いっきり天に突き上げることだった。「うーん……」と思わず声が漏れる。
 そのまま上体を後ろにゆっくり倒していくと、空は、光の海だった。
 冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。体の中がきれいな空気に洗われて、自分もこの清浄な空気の一部になっていく気がした。
 こわばっている感じのする体をほぐすように、上体や腰をぐりぐり回す。ついでに視線を周囲にめぐらせたが、車のそばに父の姿は見あたらなかった。そういえばタバコの匂いもしない。
 父が車のキーを持って出たふうはなかったと思う。私は運転席側に回って、窓越しにそれを確かめる。車のキーは、もちろんそこにしっかり刺さっていて、それを繋いでいる輪っかの先には鹿角の靴べら《キーホルダー》が、他のカギとともにだらしなくぶら下がっていた。
 どのみち互いに、車がなければここから自宅に戻るのは困難だろうからそのうち戻ってくるだろう、とそれ以上は気にせず、車のボンネットにもたれかかるようにそっと自分の尻を乗せて、目の前に広がる風景を見る。車内で見ているよりもさらに広く、闇と光が私を包み込んだ。
 天上には自然が、地上には人が。それぞれが作った光たちがどこまでもどこまでも広がっている。
 三年ほど前まで、自分自身こんな世界に溶けてしまいたいと願っていたが、それが叶わないことはすでに理解している。そしてそれを必要以上に哀しむことは、今はもうない。
 まれに、どうしようもなくそれがとても哀しく思えることがあったりはするけれど、それでも以前よりは、その哀しみも薄らいだように感じる。それだけ私が丸くなったのか、それとも大人に毒されたのかは、わからない。この私の個体と世間を隔てている1ミリに満たない皮膚という名の境界を、以前ほどわずらわしく思わなくなった。それだけのことかもしれない。
 ただ、今のように、こうして澄んだ空気に触れていると、この境界がやや曖昧《あいまい》になって、心がやすらぐ。それだけは以前と変わらない。
 私は空を仰ぎ見たまま、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏にも星の海が広がっていた。
「聖」
 靴に噛まれた砂音とともに、父が私に声をかけてきた。どうやら戻ってきたらしい。私は空気に溶け込ませていた意識を体の中に戻して、音の方に視線を送った。
 父が缶コーヒーを差し出していた。
「どれがいいか、わからなかったから」
 差し出されたそれをよく見ると、いつも私が飲んでいる、背の低い黒い缶のコーヒーだった。もう一方の父の手の中にも、同じ缶コーヒーが握られていた。
「ありがとう」
 それを受け取った。
「これ、いつも私も飲んでいるの。大学《がっこう》で」
 何となく嬉しくて、声を立てて笑うと、父は「そうか」と言って声を立てずに笑った。そういえば、父が大きな声を上げて笑っているところを、数えるほどしか見たことがないな、と思った。
 父も私と同じように車のボンネットにもたれかかる。それからふたり同時に、カシュッと缶のプルトップを開けてコーヒーを飲んだ。ほとんど同じタイミングだった。
 コーヒーはのどを通って胃に落ちていく。缶の半分ほどを一気に飲んで、はーっと息をついた。コーヒーに温められた息が、ずいぶんと冷えてきた夜気に触れてうっすら白いかたまりとなり、口から吐き出されてすぐに霧散した。私は冷えてきた指先で、まだ適度な熱を保っている缶を包んだ。
 私は父を見た。家を出てから何度目だろう。
 『話がある』と言った父は、まだその話をする気配がない。
 夜景の方をじっと見つめているように見えるけれど、もしかしたら何も見ていないかもしれない。
 そんなに言いにくい重要なことを、私に言おうとしているのだろうか。
 それとも、気を変えて、何も起こらないままにまたドライブをして、家に帰るのだろうか。
 ある意味それも、私たちにいちばん似合っている父子団欒《おやこだんらん》のような気もする。
 夜景に視線を戻してそんなことをぼんやりと考えていると、突然父の声が右耳に飛び込んできた。

「聖。お前、独り暮らしはしたくないか」

  …と。
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