オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

あの桜並木の下で 小品集 前期

曲折

曲折 本文

 私は、思ったことを思ったようにできないと、それが自分の行動であるならば特に、我慢ができない性格(タチ)だ。
 そんな私を周囲は、子供がそのまま大人になったようだとか、子供の感性をずっと持ち続けているだとか、貶されているのか褒められているのか、取りようによってはどうとでもなる言い回しで評価する。
 それについては否定しないし、だからと言って肯定もしない。どちらかと言えば「しない」というよりは「できない」と言った方正しい。
 できないからと言って、それを恥じたり苦に病むこともない。そんなことをするくらいなら、はじめから他人の顔色をうかがって周りと衝突しないようビクビク怯えて何もしなければいいのだ。
 そんな私は、私じゃない。生きている価値もない。
 私は私の生きたいように生きる。

 家業がら、私どころか兄貴が生まれる前から、……いや、父が母に出逢う前から、我が家にはありとあらゆる模型が溢れかえっている。ここ数十年はプラスチックを原料とした、いわゆるプラモデルが主流になっているが、父が母と結婚する少し前までは木製の模型が多かったのだそうだ。
 時代は少々流れて、模型店の棚には木製のそれよりもプラモデルが多くなり、対象年齢も徐々に下がり始める。そんな中で父と母は出会い、やがて兄貴が生まれ、祖父が亡くなり、私がもらわれてきて一年もしないうちに母が亡くなった。その頃父はひとりで卸しと小売りを切り盛りし、必然私たち兄妹は、生活のほとんどを店と倉庫で過ごした。それでも兄貴は途中から保育園に行ったが、私は癇が強かったらしく、行っていない。字は父から教わり、数や初歩的な計算は父が気が付いたら覚えていたらしい。たぶんオウムと一緒だったんだろう。
 さて、このプラモデルの山に囲まれ育った私は、物心つくころには、当然のようにプラモデルを作っていた。ちょうどプラモデルのブームが到来したころに私は生まれ、育ったのだ。小学生の頃には、とあるアニメロボットのプラモデルが爆発的な人気を博し、仕入れた先から飛ぶように売れていて、当時中学生だった兄貴は、所属していた中学の陸上部を辞めて家を手伝っていた。その頃になると社員を二人、土日のみのアルバイトを三人ほど雇っていたのだが、それでも人手は足りなかったのだ。
 そんな状態だった我が家で、当然のように与えられたオモチャがプラモデルだった。私が欲しがったのは、1/35という国際規格の縮尺(スケール)で作られた兵隊人形と戦車や戦闘車両のシリーズで、ミニチュアミリタリー(MM)と呼ばれているそれである。その中でも、私はとりわけ馬が好きだった。『乗馬している将校』が二セット入っているキットの、将校は作らずに馬だけをよく作っていたが、このキットはそれなりに人気商品で、よほどのことがないと父はこれを買ってはくれない(店に置いてある商品は、父のものでも我が家のものでもましてや私たち兄妹のものでもなく、店のものなのだから、父が私たちに呉れたり自分のために欲しい時は、すべて店から購入するのである。むろんこれは私たち兄妹がお小遣いをもらう程度に大きくなってからも、そして大人になった今も、そうしている。ただし仕入れ値で買うので半値に近い金額ではあるが)。仕方がないので私は、一度塗った馬を何度も塗り直したり、最後には馬の足を切って別角度で繋いで違うポーズにしたりして、一つのキットで半年くらい楽しんだものだ。
 そのうちに、前線で兵士たちの食事を作るための馬車とその用具一式がセットになったキットが発売され、私はこれに飛びついた。新製品として入ってきたこのキットを、父は気前よく、私と兄貴に一つずつ与えて、「好きなように作りなさい」と言った。私は父の言葉どおりに「好きなように」作った。
 このころから私は、兄貴と私の感性の違いに気がついていた。兄貴はプラモデルの箱絵からそのまま出てきたような写実的ものを作るのに対して、私はどこかあり得ない色遣いだったり実際のそれには間違いなく付いていない何かがくっついたもの……つまりは架空の別のものに変化させてしまうのである。他にのもの……例えばアニメロボットの模型など……も同様である。
 これは、模型屋の完成見本を作るという観点からすると、致命的に困ったことだった。……致命的に、というのは少々言い過ぎだ。実際に素っ頓狂なものを作ったとしても、それをオリジナリティとして好む人間はどこでもいつの時代でも少数ながらいる。時代によってはそれがもてはやされることもある。
 しかし私が子供の頃は、まだそういうものに対して、やや不寛容な時代だった。
 父は面白がって店のショーケースに私が作った完成品を置いてくれるのだが、やってくるお客のほとんどは、まず兄貴の作った完成品を褒めたり舌を巻いたりしたあとで、私の完成品を見てしばし沈黙する。そして苦笑しながらこう言うのである。
 「やっぱり女の子はね……」
 これには我慢がならなかった。
 男だろうが女だろうが感性というのは性別には左右されないものだと、常に父から言われ、作ったものについてアドバイスはされても基本的に褒められる(それは兄貴も同様である)ことしかなかった私には、女の子だから戦車は作れないとか、ミリタリーを理解してないだとか、ロボットも云々だとか言われることが心底嫌だった。
 同時に、兄貴に対して、情景模型ではどんなに足掻いても背伸びをしてもこの人には敵わない、と私は悟っていた。兄貴は小学生の頃からメーカー主催の模型コンテストにしばしば賞に入り、小学六年の時には父が戯れに撮った情景模型の写真が、同じメーカーの情景模型写真コンテストで大人たちを差し置いて入賞しているのを見れば、結局戦車や兵隊人形は、こういう塗りや仕上げができなければ他人から評価はされないのだなと、私は八歳にして、小賢しくもうっすらと感づいてしまったのである。
 そんな私は、兄貴よりも早くプラモデルから“卒業”した。無論今でも手慰みにプラモを作ることはある。しかしどうあがいても兄貴のセンスには敵わない。敵わないことにこだわって、相手を追い落とすまでしがみつくことは、私はしない。とっとと目先を変えて新しいことをした方が道も早く開けよう。
 “卒業”当時はそこまで考えていたわけではない。後年よくよく考えて、たぶんそういうことだったんだろうなと、思い至っただけである。
 ともかく。
 私は馬が好きだった。戦車や飛行機もキライではないが、生きものが生み出す躍動感や命そのものが好きである。
 店に隣接して建っている我が家の、庭の隅には当時大小さまざまな大きさの木片や板や丸太の端材などが積み上がっていた。いわゆる『何でも作るよ』系の父は、多忙の合間をぬって、ちまちまと店や自宅を拡張したり、材料が持つ自然の風合いを生かしてテーブルやイスを作るのを趣味としていた。現在で言うところのDIYというヤツである。
 加工前の材料を使うと叱られるが、ゴミとして庭先で燃やされる運命を待つ木片たちはどれだけ使おうとも叱られない。私はこれらを木工用接着剤で貼り合わせて大きな固まりを作り、それを削って遊ぶようになった。
 作るものはただ一つ。馬である。
 自分が乗れる馬が欲しかった。
 その思いは、遅々として徐々にではあるが確実に、実現に向かって動く原動力であった。
 1つ完成するごとに貼り合わせる木片の数は多くなり、だんだんと大きくなっていった。この作業を繰り返すうちに、私は、木片をできるだけ多く組み合わせて大きな固まりを作ってくほうが、形を出しやすく削る労力も少なくてすむことに気がついた。組み合わせる課程で、だいたいの形を出してしまうことを覚えたのだ。これは現在に至ってもかなり重宝している発見だった。
 集めたパーツとなるべき物たちを作業場いっぱいにぶちまけて広げ、それをつるつると眺めると、どのパーツがどこに配置されるべきかがスッと頭に浮かぶ。
 私が工房も持たずにまったくの独りで制作しているにもかかわらず、短時間で多作できる理由がここにある。足元に転がるさまざまなパーツたちは私に語りかけてくる。私はそれを単に、大規模駐車場の誘導員よろしく、あちらへこちらへと整理しつつ配置してやっているだけなのだ。
 木片を組み上げ削って作る馬が、小学校にある生徒用の椅子程度の大きさになったある日、父は何を思ったか私を庭に呼んだ。小学6年になろうとしている春だった。
 私は戸籍上の誕生日が四月七日で、学年最初の新学期が始まる直前に、ほぼ間違いなくクラスの誰よりも早く一つ歳を取る。そのため、クラスの誰もが私の誕生日を知らないのが当然であり、彼ら彼女らが知ったときには、そんなものはとうの昔に過去のお話となっている。ゆえに、私の誕生日を祝ってくれるのは家族しかいないのが、大学二年までの常識だった(その常識は、大学三年の時に、のちに義姉になる柳原秋子と腐れ縁でくっついたり離れたりしている保科香穂里によって常識ではなくなってしまった)
 この年も多分に漏れず、私自身も誕生日が近づいているなんてことをすっかり忘れて、いつものように春休み最後の時間を過ごしていた。
「貴子、これをやろう」
 今でも憶えている。
 四月五日のことだった。
 だから私は、それをくれた理由がわからなかった。
「少し早いが、誕生日のプレゼントだよ」
 父のその言葉を聞いて、私は自分の誕生日が数日後に迫っていることに気がついた。当時の私にとって、自分の誕生日はその程度のものだった。……所詮、戸籍上だけの、形式的なものに過ぎなかったからだ。
 父が私にくれたものは、長さ約一メートルの丸太五本(直径はさまざまで細いものでも二十センチメートルくらいはあったと思う)、形や大きさがさまざまな鑿が十本、木ハンマー、大型の両刃ノコギリ、そして三種類の砥石だった。
 正直言って、私は困惑した。
 今まで積み木の延長で馬を作っていたのに、丸太を五本も工具付きで貰ってしまった。
 パン屋志望の素人が見よう見まねと市販の安い材料でパンを作って満足していたら、いきなり出資者が現れて、最高級の国産小麦粉と天然酵母と窯も含めた必要な道具一式をやるから好きなようにパンを作ってみろと言われたようなものである。
 しかし困惑の雲はすぐに吹き払われて霧散した。子供だった私は、事の重大さよりも、いつも目の前に転がっていて垂涎の的だった材料を、自分の好きにしていいというそのことに、心を奪われたのである。
 早速私は父から貰ったものたちすべてととっくみあいを始めた。
 結果としては惨憺たるものだった。
 工具たち、特に鑿の使い方や砥石で刃を研ぐことに関しては、父が懇切丁寧に指導してくれたおかげですぐにある程度は使えるようになったし、ノコギリはそれまでさほど大きくないものを使っていたのでさほど困ることはなかったのだが、当時の私にとって思わぬ伏兵は、いつもは使いたくて仕方がなかった魅惑の材料、丸太そのものだった。
 重くて持ち上がらないのは当たり前。大きな固まりからパーツを削り出す労力は甚大だった。致命的なミスは、やはり大きな固まりから大きなパーツを削り出すことに対して起こった。いわゆる三次元的なバランスが分からなかったのである。
 かくして、ひと月以上かけてなんとか作り上げた、小さめのポニーくらいの大きさの木の馬は、組み上げて手を放した途端ものの見事にスッ転び、そして足首が折れてしまった。
 出来上がったら跨る気満々だった私の野望は、木馬の足と一緒に、ものの見事にへし折れてしまった。そして材料はもう底をついていて、補修することも叶わなかった。
 悔しかった。
 何が悔しいのか当時はわからなかったけど、とにかく悔しかった。
 野望がへし折れ、プライドもへし折れた。
 へし折れたから、私は泣かなかった。
 そして癇癪を起こした。
 傍らに置いていたノコギリを掴み、馬の足を半分の長さにした。
 そして切り取った足先をゴミ焼き場所に持って行って、新聞紙を丸めて火を点けた。
 切り取られた足は、折れた場所からじりじりと火がつき始め、シュウシュウと湯気を立てて火が大きくなっていく。
 半分ほども燃えたところで私は火の中から4本の足を掴み出し、足が短くなった馬のところに持って行って、それを本体に向かって投げつけた。
 火は足下に落ちていた木屑に移り、本体を焼き始めたが程なく消え、一部が焼け焦げた、足の短い馬だった物体がその場に残った。私は火を完全に消すためにバケツに水を汲み、そして馬だったものに水をぶちまけた。
 何杯も何杯も。
 失敗作を燃やそうと思ったわけじゃなかった。ただ、自分感情のままに体を動かしただけだった。しかしそこに残ったのは、私の中ではすでに馬ではなくなっている。
 しばらく一部が焼け焦げた木のかたまりを無言で見ていた。取り返しの付かないことをしたことを十分理解していた。本来なら、いつものように捨てる木片をまたかき集めてきて、折れた部分を補修すれば良かったのだろう。結局、私は取り返しのつかないことをしてしまったのである。それをじっと噛みしめていた。
 どのくらいそうやっていただろう。かなり長い時間だったようにも思えるし、もしかしたらまったく短い時間だったのかもしれない。見ていた馬だったものの輪郭がぼやけきって、自分が何を見ているのか、何も見ていないのか分からなくなった頃にそれは起こった。
 発想の転換。……単に開き直りとも言う。それが。
 今ここに。私の目の前にあるものは、新しい材料だった。
 私は水たまりの中に落ちている、水に濡れて一部が焼け焦げたその物体に、両手をついてぐいぐい押してみた。ほんのりあたたかかった。
 焦げて濡れた木肌に耳を押しつけてみた。
 耳がほんのりあたたかかった。
 何も音のない向こうに、かすかに鼓動が聞こえた気がした。
 この鼓動をが持つ形を、私はこの物体の中から掘り出したいと、何故かその時思った。
 また私の格闘が始まった。
 今度は、それは材料ではなかった。
 命あるもの――だった。
 急いてはいけない。
 何日もそれと対峙する日が続いた。
 庭の一角に私の作業場所はあり、縁側からそれは丸見えだった。そのため、どう見ても放置してある失敗作の前でじっと佇んでいるようにしか見えない私を見た客人が、あれこれと声をかけてくることがあった。
 胴体部分を使ってもっと小さなものを作ってはどうかとか、この焼け焦げた風情を生かしたものを作ってはどうかとか……私にとっては、そんなことは逃げでしかなかった。もう二度と逃げないのだ。逃げを打ったような話には傾ける耳は持っていなかった。
 私の失敗は私自身の中にあったのだ。
 目の前の欲望に負けてそれを実行した。私は丸太たちと、そして自分自身と、もっと真剣に向き合って戦わねばならなかったのだ。
 思うに、こと自分のことに関しては、自分の思い通りにならねば……いや、思い通りにしなければ気が済まない、そうでなければ生きていたくらない、価値もない、と強く思う気質を、初めて自覚し体現もしたのは、この一連の出来事だったように思う。いわゆる『我が(強く)出て引っ込まなくなった』という意味では。
 そしてそんな私を、父は咎めることもなく、娘の気が済むように、ずっと見守ってくれたのである。
 結局、半年近い時間を、その丸太たちとの取っ組み合いに費やすことになった。
 押しては引き、引いては押す。
 木はどんどん削られていき、時には燃やされ、土に埋められ、水に沈めてもみた。
 長い作業時間の中で、ある日ノコギリは「のこ身」を大きく曲げて元に戻らなくなってしまい、鑿(のみ)も「買い換えた方が早い」と言われてしまったくらいに刃が欠けた。どちらも私の不注意と焦りから、必要以上の力がかかってしまったのが原因だった。
 出来上がったのは、小さな拳がひとつだけだった。
 私がゆるく握れば、掌にすっぽりと収まる程度の、とても小さな拳。
 しかしそれは硬く硬く握られ、天に向かって決意を突き出している。そんな拳だ。
 人差し指と中指の一部に焦げ跡がうっすらと残っている、力強くあるがしかし非力な拳は、今も私がアトリエ兼私室として使っている“あずまや”に置いてある、父の遺品でもある文机の上にころんと置かれている。
 時に筆や絵の具、彫刻道具達に埋もれることもあるが、ふと気を抜いて視線を文机の上にさまよわせると、必ず目に飛び込んでくる。
 そしてあの、遠い昔の気持ちを、私に思い出させてくれるのである。
 結果として、私は負けたのかもしれない。しかし勝ちもしたのだと信じて疑わない。負かした相手は自分自身。自分の中にある甘えや言い訳をしようとする弱い心。
 この体験という名の自分との戦いは、その後の自分自身の物の考え方や基本行動の基盤になっていると思われる。
 ……有り体に言えば、より偏屈で頑固な性格が決定づけられた、体験だったのである。
 時は流れ、ある人々は去り、ある人々は来た。
 私の身のまわりは小さくはない変化をし、私自身もあの頃にくらべて変化した。
 すでに子供ではなくなり、モノを作ることで生きている。
 子供の頃に自分が望んだ未来とは何だったのか、それを思い出そうと記憶をたぐることがよくあるが、インナースペースをいくらさ迷ってみても答えが出てくる気配はない。もしかしたらこのまま一生思い出すこともないのかもしれない。
 しかし今が、子供の頃の自分が望んだ未来であろうとなかろうと、私は今の自分の生活を、それなりに楽しめているようにも思える。
 ときおり、耐え難いほどの、強迫観念のような切迫した思いに駆られて、行く当てもなく家を飛び出すこともあったりするが、子供の頃から住むこの家にダラダラと居着いて、追い出されないのをいいことに、私たちが生まれる以前に父と母が住んでいたという“あずまや”で、何かしらのモノを作りながら生きている。ありがたいことに兄と事実婚をしている義姉(あね)のコネをフル活用して“あずまや”では収まりきれないほどの大きさのモノを作ったりもしている。
 今私の心をとらえて離さないのは、とあるビル群だ。
 それは同型のビルディングが五棟、いわゆる五芒の頂点の位置に配列されて、すべての棟の一面が五芒の中心を向いて建っている。巨大壁画を描きたいなと何となく思っていた頃に、とある知人から「ビル外壁の装飾をしてみないか」と声をかけられた。
 少し興味が出たので、工事が休みになったとある日、その友人の案内で、ビルディングの真ん中に位置するところに作られる公園予定地の真ん中に立ってみた。
 びゅうびゅうと鳴り響いていたビル風が途絶えた瞬間、まだ骨組みだった彼らが私を見下ろしながら語りかけてきた。
「お前は、我らと戦う気概を持ち得るか?」
 挑戦されれば受けて立つ。しかし私は二度と見誤らない。
 自分の欲望でなく、そのものたちの本質を見極めること。それが、自分が一生をかけてやり抜きたいことなのだ。
 地上から天に向かって私の前に立ちはだかる五棟の巨神。
 彼らに対峙し彼らから見下ろされた時、私はエクスタシーを感じた。今も同じ場所に立ち彼らから威圧的に語りかけられると、その圧力に負けて跪きそうになる。
 セックスのあの瞬間に得る感覚にも似た衝撃。
 私はゾクゾクしながら彼らに屈しないよう、足にこれ以上はないくらいの力を込めて、足裏全体で地面を掴んで立った。
 申し分ない。
 喉が鳴る。口の中が乾いてうまく唾が飲み込めない。
 彼らと対峙するのはただひとり。私だけだ。
 はじめは五人のアーティストの共作でという話だったが、ごり押しで私ひとりがすべてのビルと向き合うことにした。こいつらは五棟でひとつなのだ。だったらひとりの人間が対峙するべきだろう。他の四人の候補者については、名前すら聞かずすべて断らせた。もしかしたら彼らの生活の糧を奪ったかもしれないし、これを奪うことで彼らの矜持傷つけたかもしれないが、それについてなんと言われようが知ったこっちゃない。私は私の思うがままに行動するだけだ。
 わがままである。自分勝手である。
 その通りだ。
 上等。どう言われようとも構わない。
 私は私の思い通りに生き、行動する。
 私は職業アーティストにはなれない。食うために何かを作るのは、それに長けた連中に任せよう。
 作るのは魂が求めるからだ。体の内奥から湧き出る欲求があるからだ。
 時に、絶え間ない欲求に身体の内と外が反転しそうな感覚を味わうこともある。
 それでも。
 だからこそ。
 私は自分自身に正直に生きる。
 自分から逃げず。戦い続けるのみ。
 誰がどう評しようとも。
 私は私の思うがままに、作り、生きる。
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