オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

九苑-くおん-

苑Ⅲ ~人不是万能(ヒトハコレバンノウニアラズ)~

苑Ⅲ ~人不是万能(ヒトハコレバンノウニアラズ)~ 本文

 西勝寺の住職になって数日たったある日、『それ』に気がついた。
 『それ』とはなにか?
 生け垣に空い穴……である。
 鷹見山西勝寺(ようけんざん・さいしょうじ)は開山してからつい五十年ほど前まで、鷹見山(たかみやま)と呼ばれているこの山全体が敷地であったそうだ。鷹見山(たかみやま)の名は、太古より、山頂に立つと周囲の山々に鷹が飛びかう姿がよく見えるところから『鷹がたくさん見える山』と人々が言い始めたことに由来する。これが次第に縮んで『鷹見の山』に変化し、近世の初め頃、山頂付近の現在地に西勝寺を開山するにあたって山号を『鷹見山(ようけんざん)』としたのをきっかけに、現在の山の名になったということである。町役場や町の図書館に置いてある、昭和五十五年発行の『N村史』に、西勝寺のことと併せて五ページにわたり、そう書かれていた。さらに時代を下って江戸の中期頃、将軍家に献上する鷹を捕(とら)まえるため藩のご家来衆が西勝寺に長逗留していたので、しばらく『鷹献山(ようけんざん)』と号していた時期があったなどという記述も見られたが、これはなかなかに眉唾物な感じがする。それでも、藩のご家来衆が寺だかふもとにだか逗留していたのは事実のようで(当寺に宿坊がある理由はそれかもしれない)、そのためもあってか、往時はふもとにあるいくつかの小集落が寄り合い、少々ひょろ長い宿場町として栄えており、宿(しゅく)の居住人口も四桁の中程を超えていたと、記録は語る。
 ゆえにご門徒宅の数もそれなりに多かったという話だが、昭和二〇年に戦争が終わって家族制度が崩壊し、若い者はもっと大きな町へさらに街へと移り住んでいって過疎の道を一直線に進みはじめると、当然のごとくご門徒の数も急に減っていった。このまま門徒が減り続けると寺の運営だけでなく存在自体も怪しくなるのではないかと、ご門徒衆の誰もが心配をあらわにするようになったと、こちらは寺の記録――『鷹見山伝録(編・西勝寺門信徒会)』――が語る。
 さて、以下は門信徒会の歴代役員の皆さまをはじめとするご門徒のみなさまからの伝聞と、『N村史』『鷹見山伝録』等からまとめて私なりに整理したものである。ところどころが伝聞形式でないのは、ご容赦願う。
 当時の住持であった先々代住職は高齢であった上にこれまたのんびりした人で、ご門徒が減り続けてもあまり深くは考えなかったらしい。危機感に迫られたのは門徒総代以下世話役会の皆々さまが『こらどげんかせんば!』とよそへ移住していったご門徒宅を訪ねて『住む場所は変えても檀那寺だけは変えてくるるな』と懇願し、なんとか寺の運営に支障が出ない程度にまで回復させたのだとか。
 しかし住職はこの時点で七十に手が届こうかとする老僧。象が踏んでも壊れない日本が世界に誇る素敵な実用バイク(排気量五〇cc)で行ける範囲はなんとかなったが、それ以上の遠方へ行くのは無理だった。車の運転免許を持っていない老僧のために、世話役会の方々が交代で、老僧を自家用車に乗せて遠方のご門徒宅まわりをしていたのだが、当の老僧が早晩音を上げて「こりゃたまらん。儂ゃもう隠居するバイ」と言いだした。
 当山の歴代住職は、開山以来ほとんどが独身で、そうでなければ子に恵まれていない。早ければ数年長ければ数十年のスパンで住職が入れ替わるのはどんな寺でも必ず起こる一大イベントだが、あとを継ぐ者(この場合は家族の誰か、主に息子ということになるが、場合によっては僧籍にある妻が継職することもある)がいない場合には、新しい住職が派遣されるか、無住寺になるか、廃寺されてご門徒衆は別寺の門信徒になるか、そうでなければ別の宗派の寺に移るか、そのまま仏教の門信徒をやめるかということになる。やめたところで、好むと好まざると、どこかの神社の氏子なのだから、宗教そのものと完全に決別するわけではない。仏が捨てても神が拾うというわけである。
 そうは言ってもご門徒衆は、今現在世話をしている寺に愛着がある。これはどこの寺の門徒・信徒でも言えることだが、西勝寺門徒の方々は特にその思いが強い。無住寺あるいは廃寺だけは避けたいと老僧に懇願し、老僧もまたその思いに応えて次の住職派遣を強く本山に訴えた。戦後間もなくのことで時勢的に坊主が少なく、やや時間がかかりはしたが、願いかなって西勝寺は存続することとなった。寺自体大きくはないが歴史だけは長いので、簡単に廃寺するのもどうか、という話もあったらしい。
 そのような次第で、長らく住持にあった老僧が隠居をして退山することになり、新しい住職――つまりは先代住職――が入山した。五十五年ほど昔の話だそうだ。
 先代住職は、今となっては好々爺(こうこうや)という風情の老僧だが、本山や県支部の老僧たちの話によるとなかなかに剛胆かつ変人だったらしく、漏れ聞こえてくる噂話の枚挙にいとまがない。飲む打つ買うは当然で、そもそも『打つ』にのめりすぎて大借金をこさえ、なんとか返済したものの地元にいづらくなって、生まれ故郷からはるか遠くの西勝寺にまんまと逃げ込んだという、派手な伝説を持っている人だ。それ以外にもご門徒の若後家さんに手を出し孕ませて地元に居づらくなっただの、暮れにご門徒さんから頂いた酒樽を正月に中身入りのまま風呂に仕立てて入っているのを当の送り主に見つかって地元に以下同文だの、門信徒会役員の皆さまと遊郭に繰り出して、お大尽遊びをした上に乱痴気騒ぎまで起こして以下同文…だの。どれが本当の話なのか作り話なのかよくわからぬお人で、掘れば掘るほど出てくるこの手の話を真面目に全部聞いていると、自分の過去のやらかしなんか小さすぎて、足下にも及ばない気がしてくるという不思議な人である。
 さて先代住職が入山した。勤めは謹直、だがそれなりにユーモアもある。人当たり良くフットワーク軽く、遠方のご門徒宅へも労をいとわず自分で車を運転して出かけていく。『これは良かご院家(いんげ)が来た』とご門徒一同諸手をあげて喜んでいたそうなのだが、ところがどっこい。そうは問屋が卸さない
 いくら猫をかぶろうともそのうち馬脚は現れるもので、大酒飲み・博打(ばくち)打ちは早々に発覚した。むろん、開祖である御聖人(おしょうにん)さまは酒飲肉食妻帯を戒めはしなかったので、大酒飲もうが肉を食おうが色を好もうが、他人に迷惑をかけなければ、それはあくまでも個人の嗜好の範疇(はんちゅう)でおさまる。しかし博打はいかんともしがたい。ご門徒衆相手にやるので始末が悪い。
 ご門徒の一部の旦那衆が、これといった理由もないのに夜になるといそいそ山に登っていく。それもやたらと頻度が高い。さらに懐具合の波が激しくなり、家業資金の一部が意味もなく消えたり復活したりする。これは何かおかしいぞと思ったおかみさんが数人、こっそり旦那たちのあとをつけてそれを見つけ、水面下で情報が交換される。またたく間に当事者以外のご門徒のほとんどが知るところとなり、その日はいきなり訪れた。おかみさんたちが大挙して、本堂(お御堂)で催されている隠れ賭場(そもそも隠れてない)に踏み込んだのである。ふもとに住んでいるおかみさんたちのほとんどが参加していたとのことで、当時この隠れ賭場問題がどれだけ深刻視されてたかがよくわかる。団結した女性の集団ほど怖いものはないのだ。
 そこにいた全員とっ捕まって締め上げられ(本当に縄で縛り上げたということだ)、住職を更迭して別の住職をあらたに派遣してもらおうではないかという話まで出たが、ここで門徒総代の仲裁が入った。結局この騒ぎは、隠れ賭場で賭け事をしていた者すべてが連座の上『今後の賭け事はマッチ棒と饅頭(まんじゅう)だけに致します』という誓文に全員署名させられ血判まで押さされて不問してもらったそうである。ちなみにこの誓文の実物を、私は入山初日にご院家に見せてもらったので、少々話は盛っているが、事実である。
 この手の話をもう一つしよう。
 ある日いきなりお山に役場から技師が派遣されてきて、なにやら測量をやっている。それが何日も続くのでご門徒衆に不安が走る。「すわ何事か、説明せよ」と世話役会が総出で役場に怒鳴り込む。いきなり怒鳴り込まれた役場のほうも「すわ何事か」である。怒鳴り込んだ方と込まれたほう、役場の入り口付近で押し問答が何日も続き、住職が無断で山の大半を町に寄付しようとしているのが発覚した。世話役会は寝耳に水であるし、町役場側も寺と門徒の話し合いはとうについていたものと思っていたからびっくりである。「ともかく、お山に行って話をせんば!」と、今度は役場も世話役会も一緒になって寺に駆け込んで、住職に直談判という開山以来の大騒ぎとなった。けっきょくやっきょくこの時点での寄付は取り下げることとなり、住職と門信徒会が朝に夕なに侃々諤々(かんかんがくがく)……というか、門信徒会が烈火のごとき談判をし、対する住職はのらりくらりと言い訳したのだろうことは想像に難くない。最終的に、手入れが大変だとか固定資産税がうんたらかんたらということで、今の建物周辺の土地と山道(さんどう)と表山門以外は、すべて自治体に寄付することになった。本来 寺の敷地については、広げるも削るも本山の許可がいることなのに、そのあたりについての記録が一切なく、門信徒世話役会の旧メンバーでも人によって話が微妙に食い違っているので、仔細については藪の中だ。……が、今のところご門徒衆から「土地を取り戻したい」との発言は聞かれないので、そのままそっとして突かないようにしている。山全体をまた寺の管理下に置くことになったらそれはそれで大変なので、私の代でそういった話が出ないことを祈るばかり。……貧乏寺なのでたぶん大丈夫だろうけれども。
 そんな素敵な先代住職から引き継いで、私が正式に西勝寺住職となったはいいが、しかしなかなか身辺が落ち着かない。入山してから住職継職まで約三ヶ月あり、この間にほぼすべてのご門徒さんと顔合わせを済ませてはいる。ちょうど秋のお彼岸がこの三ヶ月の終わり頃に鎮座していたので、この期間中ご院家と二人ですべてのご門徒さん宅を回りきってご挨拶申し上げた。布教師の仕事も西勝寺の住職として落ち着くまでのしばらくの間は依頼を止めているので、これもとりあえずの問題はなし。
 ではなにが落ち着かないのかといえば、初めての女住職ということかあるいは単に新しい住職そのものが珍しいのか、誰かしらがひっきりなしにやってくる。やってくる人は例外なくなにかしらの手土産を持ってくる。ただこの手土産、買った物ではなく、自分ちで取れたものだとか自分ちで取り扱っている商品だとかそんな感じなのだが、すべてがすべて、とにかく量が多い。
 伊三さんちのおかみさんが、一つが一抱えもあるような白菜六個を縄でひとくくりにして下げてきたかと思ったら、本堂(お御堂)の御拝口にどさっと置いて「食べてんしゃい、美味しかけんが」と笑っていたり、「ご院家さん、これ軒に干しときんしゃい。二週間も干しとったら食べられるごとなるけん」と壽保(としやす)さんとこのお母さんが、渋柿の皮を剥いてひもに十個ほど吊したものを十(と)下げも持ってきてさらに裏軒に下げて行っただとか、勝次さんがおかみさんとやってきて、境内をきれいに掃いたりお御堂の畳を拭き上げてくださっただとか、朝から夕方まで誰かが寺にいる状態だ。ちなみに全員「田仲さん」である。いくつかの姓は軒数が多いので、下の名前じゃないと誰が誰だかわからなくなる。
 お月忌――ご門徒さん宅の代表月命日法要――も大変で、何が大変かと言えば、誰がどの家だったかすぐに憶えられない。もちろん、月忌法要はおこなうお宅とそうでないお宅があって、すべてのご門徒さん宅にうかがうわけではないが、お彼岸でひとめぐりしたあとにいくつかのご門徒さん宅から連絡があって、あらたにお月忌をするところが増えたりしたので、日によってはそれなりの数と距離をこなさなければならない。ご門徒さん宅のご住所と電話番号を一覧表にし、個人宅の名前まで載っている詳細な地図と照らし合わせていく作業を、夜になってから進める日が何日も続いた。憶えてしまえば使わなくなる資料だが、今はそうもいかない。月忌もそうだが盆彼岸ともなれば、さらに手際よく回っていかねば何日あってもお参りが終わらないという事態におちいるのは、経験上つくづく思い知っている。
 それ以外にも地域組(ちいきそ)内にある同宗の寺へあらためて挨拶回りをするだとか、そんなことも欠かせない。寺どうしのつきあいも大事なのだ。
 そんなこんなでめまぐるしく継職からふた月ほどが流れ、しかしそろそろどうしても断れない、昔からのお付き合いのあるお寺さんにご講話に行き、そこでやっと一息ついた。
 どこかの住職になろうと思った時にそれなりの覚悟はしていたのだが、ここまで忙しいというか昼のプライベートがほぼない生活になるとは思わなかったので、気がつかないうちに少々気が滅入っていたらしい。今まで一年のほとんどを余所のお寺さんに呼ばれて日本中を旅する生活をしていたので、ひとところに腰を落ち着けるのが苦手になってしまっているようだった。
 本来なら仕事が終わってすぐに寺に帰るべきところなのだが、スケジュールに少し余裕を持たせておいたので、ご先方からさほど遠くない温泉町へ行って一泊し、ゆっくり湯につかって心身をゆるめることにした。つまりは気晴らしだ。宿に入ってほっと一息つくと、宿の女将さんがご挨拶に見えられた。
「久世(きゅうせい)さん、ほんにお久しぶりですねぇ。最近、お忙しんですか?」
 実はここへは二年ぶり。とある年に二ヶ月ほど滞在させてもらったこともある、昔なじみの宿である。
「ええ。ここ数年、全国を飛び回っていました。清福寺(しょうふくじ)さんにはときどき呼ばれて来ていたんですが、こちらまでなかなか足を伸ばせなくて。申し訳ありません」
 そう言って頭を下げると、女将さんはころころと笑った。
「それはそれは。お商売繁盛でなによりですわ」
 私の母くらいの年齢だからか、それとも長逗留させて頂いたときに家族のように接して下さったからか、女将さんの言葉は時に少々きついが、私はまったく気にならない。それどころか優しささえ感じる。
「お忙しのに、寄って下さるやなんて、嬉しいですわ。……というか、久世さん。なんぞお疲れのように見えますけど?」
 さすが女将さん。私はにっこりと笑った。
「いやぁ、実は二ヶ月ほど前に、念願の住職になりまして」
「あら……」
 女将さんは、さらりと座り直してスッと畳に両手の指先を置き、深々と上半身を沈めた。
「ご院家さんにおなりになったんですねぇ。……おめでとうございます」
 こちらも慌てて居住まいを正し、頭を下げる。
「改めましてご挨拶申し上げます。このたび鷹見山西勝寺二十九世住職を勤めることになりました。まだまだ未熟者ゆえ、精進研鑽心がけて参りますが、ご迷惑をおかけすることあるやもしれません。今後ともご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます」
 女将さんと私、頭を上げるのは同時だった。たぶん女将さんがこちらの呼吸を計ってくれたのだと思う。
「西勝寺さん……ということは……」
「ええ、実家ではありません。実家の方は、妹夫婦が継ぐことになると思います。……甥っ子も生まれましたしね」
「……それが、よろしゅうございましょうねぇ」
「……はい」
 しばしの沈黙ののち、私は簡単に、どこかの住職になろうと決めたときから今までの話を女将さんにした。女将さんは時折、まろい鈴のような声で笑いながら、「それは大変でしたなぁ」とか「それは久世さんがお悪いですわ」と、励ましてくれたりたしなめてくれたりした。以前に長逗留したときもそうだったが、この女将さんにいろいろ話を聞いてもらい叱咤激励されると、不思議と心が軽くなっていくのを自覚する。話を聞いてもらいながら、ゆくゆくは自分と西勝寺も、この女将さんとこの宿のような、話を聞いてもらいたい人が気軽に門を叩けるようなところになりたいと思っていた。
「悪い気を出したあとは、体をリフレッシュさせませんとなぁ」
 そう言われて、女将さんから宿を追い出された。つまりは『歩いてこい』ということだ。心が多少軽くなったら体を動かして、血や気のめぐりを良くしてやれということらしい。
「つまりはリハビリね」と私は納得して、温泉街をブラブラ歩いた。
 平日の昼間なのだが、立ち寄り湯や足湯も充実しているので、小さな温泉街にしては観光客でそこそこ賑わっている。しかし皆長くて一時間程度しか滞在しない。温泉と土産、以上終わり。観光バスが客を運んで来ては去る。足湯に十分ほど浸かり、そののち土産物――主に温泉まんじゅうと野菜や山菜だが――を買ってあわただしくバスに乗る。そんなご年配の方々を眺めながら、私はいつもの作務衣の上に宿の半纏を羽織り、草履履きでブラブラとあてもなく歩いた。
「ありゃ、久世さん。お珍しなぁ、お元気やった?」
 ところどころの店から声がかかる。長逗留をしているときに顔なじみになった店が何軒もあり、みなニコニコと声をかけてくれる。
「お久しぶりです。お元気してましたよー」
 そんなことを言いながら、いつもの店々で温泉まんじゅうを一個ずつ買っては食べながら歩いて行く。
 どの人も人なつこく声をかけてはくれるけど、それ以上の関心をこちらには向けない。観光客が流れ来ては去る一期一会の客商売でもあるし、時に昔の私のような訳あり客が紛れ込んでいたりもするようなところだ。必要以上に深入りもしない。しかしさりげなく行き交う町の人たちの視線は、実はとても注意深く客人たちを見ていて、訳ありの客なぞすぐに見破ってしまうのだった。その証拠に、この温泉街では何十年も自殺者も未遂者も出ていないし、刃傷沙汰も起こっていない。すべては未然に防がれているのだ。
――この雰囲気に救われたんだよなぁ……。
 四つめの温泉まんじゅうを頬張りながら、昔 日課のように歩いたコースをぶらりぶらりと途中の土産物屋を冷やかしたりしながら歩いている時に、それを見つけたのだった。
 その店も、憶えているかぎり自分がここに来始めた頃からある店だった。山の斜面にひさしを付けて柱で支え、三方に簡単な壁を付けたような店で、県道に面している部分は全開口。シャッターはなく、閉店時は開口部にトタンを貼った雨戸のような板壁をはめ込んで、それらを南京錠で繋ぐだけといった豪快な作りだ。取り扱っているものも果物野菜が中心だが、椎茸や山菜の干したもの、縄で縛ってぶら下げても崩れない豆腐やその豆腐で作った分厚い油揚げ、豆腐の元になった豆の匂いと味が強烈にする豆乳、定番の土産菓子や漬け物、竹細工や素朴な工芸品などである。客は常連のほうが多く、ときおり一見の観光客がやってくる程度だ。はじめて店に踏み入れた人がそのまま常連になるケースが多い。たいがいが自家用車で来るので、この周辺の店には珍しく、店の前と両サイドが小さな駐車スペースになっている(ただし整備された駐車場ではない)。
 この日は平日だったからか、店に向かって左側の駐車スペースに植木がところ狭しと並んでいた。駐車スペースと言ってもこちら側は軽自動車がなんとか二台止められるかな程度の空き地で、運転が下手だったり何も考えてない運転者が駐めたりすると、一台しか駐められなくなるという程度の広さしかない。そんなところにみっしりと大小さまざまな苗木たちが並べられているさまは、いつもと違う雰囲気で、嫌でも目に入ってきたと言った方が正しい。私はここの豆乳が大好きで、散歩ついでに何本か買って帰るかと思いながら歩いてきたのに、おもわずその苗木たちの前で足が止まってしまった。
 理由がある。
 境内の生け垣の一部に、穴が開いているのである。
 西勝寺は、滅多に呼ばれないのだが、別名を『木槿寺(むくげでら)』とも言う。
 地元の人は『お寺』とか『お山』としか言わないのだが、二十年ほど前に観光系のガイドブックで紹介されたことがあったらしく、その時の呼び文句が『木槿が咲き乱れる人里離れた古寺』だったのだそうだ。以来、地元以外の人から『木槿寺』と呼ばれているのだが、ガイドブックや他地方の人たちが称するように、西勝寺の境内には、山と境内の境界が一目でわかるようにか、ぐるりと木槿の木が植えてある。
 私がはじめて西勝寺に来たときぽつぽつと咲き始めていた花が、入山する頃には満開で、薄紫をはじめとして白やピンクなど、一重八重の花々が深い緑の葉壁を鮮やかに彩っていた。
 その生け垣の一部に穴が開いている。人がひとり、横歩きすれば通れてしまうくらいの穴が。
 初めて見つけたのは、先代住職が退山して三・四日経ったころだった。なぜ寺に居住して三ヶ月以上も気がつかなかったかと言えば、理由がよく分からない。決して死角になっている場所ではないのだ。穴は、住職の住居部分である庫裏(くり)側玄関から本堂横の通路を通って表に出る付近にあった。
 私自身は先代住職が退山するまで、本堂を挟んでほぼ反対側にある宿坊の一室で寝泊まりをしていた。宿坊は庫裏からも入れるようになっているが、正式な入口は庫裏の反対側にある。だから私は庫裏側からは入らず、そちら側から出入りしていた。庫裏から宿坊へと通じる扉には両面に南京錠をかけられるようになっているので、これを門徒総代立ち会いの上で両方からかけることにした。一応男女がひとつ寺の中にいることになるので、ご院家も私もそのあたりは気を遣う。うっかりな行動をしたがために、変な噂が立ったり勘ぐりが起きないとは誰が言えよう。
 そんなわけなので、見つける機会が少なかったと言えなくもない。
 しかし庫裏側の通路を一度も通らなかったかと言えばそんなこともなく、掃除だなんだと、寺にいれば毎日何回もその前を通る場所だ。
 ではそこの木が抜かれたか切られたかしたのかと言えば、そんなこともなかった。抜かれて地面がゆるくなってるとか、切り株があってそれが新しいなんてこともない。それどころか土はがっちり踏み固められてて、どうやらそれなりに人がそこを通っているような感じである。では、穴の向こうに何かがあるかと思って入ってみたが、何もない。強いて言えば、二坪程度の空間があるだけだった。その先に道はない。もちろんけもの道も。
 奥へと入ってみると、何かが置いてあった痕跡があった。ちょっとした大きさの物置が置いてあったような、そんな痕跡。なぜそれが痕跡だと分かったかと言えば、その大きさの面積分、白っぽくてひょろりとした草がまばらにしか生えていなかったからだ。つまりそこには日が当たってなかったということになる。また、ところどころ等間隔には礎石が置かれていたらしき跡もあり、そこはブロックひとつぶん草一つ生えていず、その周りに申し訳程度の雑草がこれまた今にもしおれそうな風情でピヨピヨ立っていた。
 先代住職がここにプレハブのミニ倉庫か何かを置いていたのだろうか。それならば倉庫そのものは置いて行ってくれても構わないのだが、退山する時にはそんな大きな物を運び出している様子は一切なかったし、ここで動物を飼っていたような匂いもなければ気配もない。とにかく謎だらけだった。いくら調べても考えても訳が分からないので、謎は謎のまま置いておくほかはなかった。しかし生け垣の空間は埋めたいと思った。埋めてしまって人も獣も入らないようにしてしまえば、その向こうの空間はほどなく草が生え木が生えして自然の状態に帰するだろう。
 なので、苗木が路地売りされているのはいいチャンスだった。
 わざわざ同じ大きさの木を買う必要はない。木も生き物だ。生け垣として活用されている木々は、伸びすぎないように時期が来ればこれでもかと刈り込んでしまう。だから刈り込みに強くよく伸びる木を植えてやる。つまりは、新しく植える木が少々小さくても、周りに負けて枯れなければ、数年で同化してくれるのである。自分の実家の寺がそうやっているから間違いないだろう。
 私は無造作に並べられている苗木たちを見た。花の色はどうでもいい。とにかく木槿は置いてないか。
 実を言えば、私はあまり植物には詳しくない。寺の生け垣が木槿だと知ってはいるが、それは門信徒役員会のメンバーで植木職人をしている安田本(モト)氏こと“ポンちゃん”が木の名前を教えてくれたからだ。その程度の知識しかないので、どれを見ても同じような木にしか見えない。生け垣の木がどんな姿だったか記憶をたぐってみたが、たぐればたぐるほどイメージがどんどんぼやけてよくわからなくなっていった。仕方がないので自分で探すのは諦めた。身体を起こして店の人に声をかける。
「すみません、この中に、木槿はありますか?」
 自慢ではないが、私の声はよく通る。商売道具だからなおのことだ。かなり遠い場所で大きなミカンを売り場に出している若いお兄さんが、顔を上げてこちらを見た。
「木槿? あるよー」
 あちらの声もよく通る。店のお兄さんは作業の手を止めて、早足でこちらに来てくれた。真っ黒に日焼けした大きな身体がどんどんこちらに近づいてくるが、決して重そうに見えない。とても身軽だ。
「たしかねぇ……これだったと思うけどね」
 お兄さんは私の目の前に来たかと思うと、すぐさま木たちが並ぶ奥の方に腕を伸ばして一本の苗木を引っぱり出した。根の部分はやや大きいようだが、そこから生えているものとても貧弱だった。それは根元から出た細く白っぽい木で、本体から伸びている数本の枝もひょろひょろと頼りない。それらをあまり広がりすぎないようにビニールひもで小さくまとめているものだからよけいに貧相に見え、こちらを何となく不安な気持ちにさせる。苗木には種類を示す写真入りの札が付けてあったが、これは日に焼けきっていて残念ながら文字が消えてしまっていた。写真もかろうじて花の形が分かるかなといった程度で、もしかしたらずっと店ざらしになっていたんだろうかと疑いたくなる風情だった。
「これがいいよ、お姉さん」
 店のお兄さんは自信たっぷりに言う。
「そう……なんですか?」
 私はちょっと意地悪い声で、お兄さんの言葉に異を唱えた。しかし彼はさらに自信たっぷりに言う。
「もちろん。これね、ほら。根がしっかりしてるでしょ? 上が細いからすぐ枯れそうに見えるかもしれんけどね、ここがこれだけしっかりしてるから、植えたらすぐに根付くよ」
 なるほど。言われてみればそうかもしれない。
 よく分からないままに納得する。今回は車で来ているので、持って帰るのに重いとか大変だということはない。明日 出発前に水をしっかりやっておけば大丈夫か。道中倒れないように、バケツをどこかで買わねばならないだろう。水はコンビニででも買えばいい。
 「じゃぁそれを」と苗木を買い、当初の目的である『豆の匂いと味が強烈にする濃い豆乳』も数本買い、私はまたぶらぶらとあるいて宿に戻った。戻ってすぐに風呂へ行き、ほかほかになって部屋に帰ると、少し早めだったがすでに夕食が用意してあった。平日の今日はさほど泊まり客が多くないとかで、宿の女将さん手ずからの給仕とゆったりしたおしゃべりで、美味しい食事を楽しんだ。そののちまた風呂へ行き、そして早めに就寝して、身も心も存分に休めることができたのだった。
 翌朝、女将さんと仲居さんたちに見送られて宿を出発した。ここから西勝寺までは高速道路を利用して約十時間の行程である。交代要員なしの道行きだが、退屈と睡魔が襲わなければ、私はさほど苦しいとは思わない。
 高速道路に入る前に、早朝から営業しているホームセンターに寄って、バケツとミネラルウォーターを買う。それに苗木を入れ、根に水を含ませてやってから一路九州へとひたすら走った。途中何度か休憩を入れたり予想外の渋滞に巻き込まれたりしながら、日が暮れて少しした時間に我が家である西勝寺に帰り着いた。
 夜の寺は閑散としていた。気がつけば師走が迫っている。山の木々をふるわす風の音だけが聞こえて、この静寂があるからこそ昼の賑やかさが楽しいのだな、と気がついた。自分の中に余裕ができたことを感じた瞬間だった。
 明けて翌朝、さっそくご門徒さんたちがやってくる。と言っても、私が留守にしているあいだも交代で境内の掃除に来て下さる方たちがいたはずなので、これについては私がいてもいなくても変わらない風景・変わらない西勝寺の日常である。そうだ、これが私とこの寺の日常なのだ。
 朝のお勤めをし、朝ご飯をたべてから、ご門徒さん宅の月忌に出掛ける。庫裏と宿坊は閉めるが本堂は開けたまま。やってきた人が気軽に茶が飲めるよう、それだけ用意をしておいた。寺は誰にでも開かれているべきある。
 お昼過ぎに戻ってきて昼食。戻ってすぐに本堂を覗いてみたが、茶セットを使った気配もなく、積み上げた座布団が乱れてもなかった。誰かお参りには来たかもしれないが、茶を飲みくつろいだ人はなかったようだ。今日は午後からの月忌参りの予定はない。昨日の長距離運転の疲れも取りたいからちょうどいい。私は一昨日買った木を例の隙間に植えることにして、道具一式と苗木を出してきた。
「……あれ?」
 違う。違うのだ。何かが微妙に違う。
 生け垣の木槿と買ってきた苗木。よくよく比べてみると何となく違う。似てるが違う。たぶん違う。
 違うのは分かるのだがそれが何か分からない。しかし同種系の木には違いなかろうと思い直し、予定していた場所に穴を掘ってそれを植えてやった。そのうち大きくなって、この隙間をふさいでくれれば、目標達成である。
 さて夜。門信徒会世話役会のメンバーがやってきた。いわゆる定例会だ。世話役会の定例会は、昔から寺の本堂でやると決まっている。だから前住職が過去にここで隠れ賭場をひらいたりできたわけだ。
 世話役会が本堂であるからといって、住職である私は彼らをもてなす必要はない。茶はともかく酒もつまみも手弁当で持ってくる。机や座布団も自分たちで勝手に出して終わったら戻す。これが連綿と受け継がれてきたルールなのだという。では住職はなにをするのかと言えば、定例会に参加して要望や提案をしたり意見を述べたり。つまりは寺と門徒衆のしたいことして欲しいことの意見交換と折衝。これが定例会の主たる目的だ。
 しかし悲しいかな嬉しいかな。新世話役と新住職の11名。素敵にみな同年代。真面目な話のそれはそれとして、遊び事の共通話題に事欠かない。私自身のことを入山前にしっかりと話をしておいたこともあって『緊張感? なにそれ美味しいの?』状態に、前住職が退山するまえからなっていた。もちろん何十年も前の過去のこととは言え、すねに傷持つ身の前住職は『仲良きことは美しき哉』と見て見ぬふりである。狎れ合いってこわい。
 私が正式に住職になってからの定例会では、さいごになぜか『たぶん日本でいちばん有名な、ルーレットの数字で駒を進めるすごろく』で遊ぶのが恒例になっていて、今日も大いにそれを楽しんでいた。そろそろゲームの終盤にさしかかろうとしている時、焼酎を入れた丸湯呑み片手に、安田のポンちゃんが言った。
「そういやキュウちゃんな、あらどげしたと?」
「はい? なにかありました?」
「いやぁ、庫裏の玄関の方に行く路地さ。あそこに穴あったろ」
 ポンちゃんは、プレイヤーのコマである車の上に、乗せきれないほど手に入れたピン(これは子供を模してあって、全員が必ず止まる最後の関所ですべて売り払って換金するという、よくよく考えると怖ろしいルールがある)を丸太でも積み上げるようにして乗せて、それを意気揚々と進めつつ言った。
「ええ、ありましたねぇ」
「あの穴んトコにさ、芙蓉の苗ば植えとるやん」
「……は?」
 ルーレットを回そうとした私の手がふと止まる。
「周りは木槿なんに、なし芙蓉かなち思てっさ」
「……芙蓉?」
「芙蓉じゃな。あれは」
 その頃には場がしんと静まりかえり、私とポンちゃんを見比べるようににして、みんなが注視していた。
「木槿……ではない?」
「おう。……てか、もしかしたらキュウちゃん……」
 場が一瞬、ざわ…と揺らぐ。
「……てっきり木槿だと……お店の人も太鼓判おしてくれたし」
 動揺を隠しながらルーレットを回すと、力が入りすぎてたのか、ルーレットの上部分がぶぅん…とうなり声を上げて外れ、勢い余って盤の外に飛び出していった。もちろん自分の駒みならず、みんなの駒も盛大になぎ倒しながら。
 どぉっとみんなが笑う。そのどよめきで、お御堂(本堂)が一瞬揺れたんじゃないかと思った。
「アンタ、なんでんできるすごか人ち思ちょったばってんが……」
 雑貨屋で最年長の真(まこと)さんこと“まこっちゃん”が、畳の上に転がりながら大笑いする。クルマ屋のカメちゃんやら造り醤油屋の汰一(たい)っちゃんやら、みんながみんなそんな感じだ。こんなに笑われたら、恥ずかしいというより気まずいほうが先に立つ。
「すみませんねぇ。植物については、野菜以外はよく分からないんですよ。専門外だしっ……てかみんな、そげん笑わんでん良かっしょうがっ!!」
 この一声で、みんな余計に笑い出した。ゲームの道具はぐしゃぐしゃにかき回されて、続けようにも続けられない状態になっていた。ついさっきまで熱く熱く展開してた『人の一生をテーマにし、最後に妻子供を売り払うという壮絶内容のすごろく』なのに、どうやら本日の勝敗がどうでもよくなってしまうほどの笑撃だったようだ。……どの部分が愉快だったのか、よく分からないのだけども。
 みんなの笑いがおさまって、散らかりたくったものの後片付けが始まったころ、ポンちゃんが笑い涙をこぶしでぬぐいながらこう言った。
「ひと言 言うてくれたら俺(おる)が都合ばつけちゃるけん、今度からまず俺に相談しない。餅は餅屋ぞ」
 たしかにそうである。
「で、どげすんな? あの芙蓉、抜いて植え替えるな?」
 これについては辞退した。自分のやらかしは自分で責任とるべきだと思ったから。そう正直に言うとポンちゃんはさらに言った。
「いやぁ。抜いてよ、別のもっと日当たりの良かトコに植え替えたらいいが。……それにあそこな、意味があって空いとる穴やきね」
 ……は? 今なん言(て)った?
 つまりはこうである。
 先代住職が退山するまで確かに穴はふさぎ隠してあった。シュロ竹を植えた大きな植木鉢を穴のところに置いて、簡単に入ったり中を覗いたりできないように、しかしそれを退ければ簡単に出入りできるようにしてあったのだそうだ。私が気が付かなかった理由は単純に、植物にあまり興味がないからだろう。
 穴の内部にある空間にも、確かに小さな物置が置いてあったとのこと。しかしこれは単なる物入れとしてではなく、先代住職がこっそり作ったどぶろく(密造酒)を保管していた場所なのだそうだ。さらに知る人ぞ知るで、時々密造酒会の酒盛り場所にもなっていたらしい。知っているのはもちろん世話役会の旧メンバーが主で、女衆(おなごし)には知られてはいけない最重要機密だったとか。そんなわけで、先代住職がいる間は私にさえも秘密にされていて、ご院家が退山すると決まった頃からひそかにすべてを取り壊し、濁酒(どぶろく)も訳知りの門徒衆に配られ、一部はご本人が持ち去ったということだ。
 こうして一部の人々にとっての秘密の花園は、きれいさっぱり消失した。だったらやはり穴をふさいでもう使わないようにしてしまえばいいじゃないかと思いたくなるが、そうもいかない理由があった。
 もともとあの穴の先にある空間は、六世だか八世だかの住職があの場所で即身仏になった場所という伝説があるところで、しかし伝説は伝説であって、事実はかなり眉唾ものらしい。実際、寺の記録にそんな話はカケラも出てこない。しかしそれでもあの空間をつぶそうとすると、お山が火事になるだの、ふもとに集落に日照り水害が起きるだの、寺に狐狸妖怪が出て住職がたぶらかされ、ご本尊が行方不明になっただのという話がいくつもあるとのこと。『だからあの空間は、何に使っても構わないが常に手入れしておく必要があるのだ』と、世話役会メンバー全員が雁首そろえて真剣真顔で訴えるに至って、眉唾な話がよけいに眉唾になるという不思議な体験をした。
「わかった。分かりました。じゃ、あの場所はとにかく何かに使いましょう」
 眉唾ではあるが、みんなが真剣な顔でこっちに迫ってくるから、さすがにそう返事しないわけにはいかなかった。
 触らぬ神に祟り無し……いや、ここは寺なんだけど。
 明けて次の日の早朝。祟りがあってはかなわぬと、世話役会のメンバーがこれまた雁首並べてやってきた。せき立てられるようにして朝のお勤めを終え、すぐさま芙蓉の植え替えが始まった。朝ご飯を食べる間もない。
 そもそも小さな苗木に十一人も取りかからなくていいじゃないかと思うが、雑貨屋のまこっちゃんを筆頭に、私も含め、最長五歳程度の年齢差。私が“いちおう女”ということで気を遣ってくれているのもあるのだろう、必ず複数でやってくる。彼らはもともと子供の頃からの友人、つまりは幼なじみで、各人の役回りも決まっているらしく、これといった打ち合わせをしているふうもないのに、この人はこれ、あの人はあれと、手際よく行動する。私は植木職人・ポンちゃんの助言にしたがって芙蓉の植え替え場所を決めると、みんなが一斉に動きはじめた。私はそれを見守るだけが仕事になった。
 みんなのチームワークと仕事の速さに感服しながら、いい世話役さんたちに巡り会えたことを、先代の世話役会の皆さまと前住職、そして阿弥陀様に感謝した。彼らと一緒に寺を運営していく限り、未来はすこぶる安定しているだろう。
 さてこの話にはオチがある。
「いやー。まっさかアンタにも分からんことがあるとは思わんじゃったなぁ」
 三十分もかからず作業は終わり、御拝口の階段に腰掛けて、クルマ屋カメちゃんちの奥さんが持たせてくれたという大量のおにぎりをみんなで頬張っているとき、肉屋の藤崎一郎さんこと“イっちゃん”がそう言ってカラカラと笑った。
「私も人間です。知らないこともたくさんあるし、前にお話ししたように、欠陥だらけの人間ですよ」
「まー、芙蓉と木槿はよー似ちょぉきねぇ、間違うても可笑しないばってんがねぇ」
 ポンちゃんがまた思い出したようにケタケタ笑い「ばってん葉がぜんぜん違かろうが」と言い添えた。
「……実を言うと……」
 私は恥のかきついでに告白することにした。
「中学二年になるまで、ブロッコリーが咲いたらカリフラワーになるんだと、本気で思ってましたよ」
 言って、最後のおにぎりに手を出して頬張り、チラリとみんなの方に視線をやる。全員が形容しがたい表情で口を真一文字に結び、目をひんむいてこっちを見ていた。場が凍っている。ちょっと突いたら間違いなくみんなの笑いが爆発する。
「そのくらい、植物には疎いんです」
 覚悟を決め、そう締めくくって、ぶっと梅干しの種を吹き飛ばした。種はきれいな弧を描いて地面に落ちていく。種が地面に落ちたと同時に、昨夜同様、みんながどぉっと笑った。笑え笑え。恥はかき捨て。つまらぬ秘密は作るものではない。笑う門には福も来る。いいことずくめだ。
「イヤイヤ。こら良かご院家が来(こ)らっしゃったバイ!!!」
「まことまことじゃ。坊ンさんっちゃ、ちぃと雲ん上の人かち思ちょったばってんが」
「特にアンタは、初めて会うた時にあげな話ばしんしゃったけんねぇ。どげしょうかち思いよったばってんが」
「ブロッコリーが咲いたらカリフラワーげな」
 御拝口の下で大の男たちが十人、これ以上笑ったら口から内臓(アンコ)が出るんじゃないかと思いたくなるほど笑い転げている。いいからお前たち、とっとと仕事に行け。
 この後、ブロッコリーカリフラワーの話は瞬く間に門徒さんたちの間に広まった。どこに行ってもしばらくは、その話題が挨拶代わりになった。おかげさまでご門徒さんたちとの距離が一気に縮まったのは、ケガの功名と言うべきだろう。
 前住職も破天荒がゆえにご門徒さんたちから愛されていたのだろうと感じるのは、彼の昔の武勇伝を語る人々はからは、親しみが溢れ、皆笑いながら懐かしみながら語ってくれるからだ。
 人間、完璧じゃない方が親しみやすいというのは、間違いない。
 たぶん。たぶん。
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