オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

九苑-くおん-

苑 ~そして彼女が…~ 

苑 ~そして彼女が…~ 本文

 ――とんでもない、夢を見た。
 いつもの時間に目が覚める。
 起床。顔を冷水で洗い、口をゆすぐ。
 作務衣に着替える。
 お御堂(みどう)にいき、御拝口(ごはいぐち)を開き、それから日課でもある朝のお勤め。
 決して広くはない本堂だが、さすがに一人は閑散としすぎる。
 この季節のこの時間は、夜が明けきらないからか、空気が凍るように冷たいせいか、はたまた山道が凍って来ずに来られないためか、朝のお勤めをやろうなどという奇矯なご門徒は麓の集落には誰ひとりとしていない。
 最近は宿坊に逗留する物好きや悩みを抱えた人もいない。
 つまりは一人だ。独りといってもいいだろう。
 ひとりは別に寂しいとか思わない。寺はなにぶんにも忙しい。ひとりだからなおさらだ。
 自分の口から発せられる阿弥陀経を聞きながら、今日はどのご門徒宅が月忌だったか考える。
 ……思い出せない。――というか、夢見が悪くて……いや、良くて……いや、やっぱり悪くて、そればかりがぐるぐる頭の中を回っているのだ。
 まさしく煩悩の固まりだ。
 それについては困っちゃいないし、坊主だから住職だからといって“ココロキヨラカ”などと勝手に思われる方が心外だったりする。坊主こそ煩悩にまみれている。
 そんなことを考えていたら、阿弥陀経の最後の一節を唱えていることに気がついた。
 ……阿弥陀さまお釈迦さまお聖人さま。不詳すぎる弟子ですみません。と心の中で懺悔して、最後に鐘をひとつ打った。
 カ――――――ン!
 朝ご飯を用意する。……といっても、前の日のおかずの残りと白菜の漬け物、以上終わり。
 白菜漬けは、ご門徒の佐々木さんちのお婆さんから頂いたものだ。
 ここんちの漬け物は絶品に美味い。うっかりすると、これだけでご飯三杯平気で食べちゃえるくらいに美味い。
 これに、おなじくご門徒の津田さんちの味噌で作った豆腐のみそ汁があればいうことなしなのだが、あいにく味噌は一昨日あたりから切れている。津田さんちの月忌は四日後だ。それまでの辛抱辛抱。
 朝ご飯の用意をしている時も、さらに食べているときも、例の夢の内容がぐるぐる頭の中を回る。
 困ったな。
 自分が煩悩の固まりなのは困らないが、こういうのはかなり困る。とうの昔に枯れているものだとばかり思っていたのに、あんがいそうでもないらしい。人間はしぶとい。だからこうして生きていけるのだろうけど。
 ご飯を食べながら、行儀悪くスケジュール手帳を開く。さらに壁にかけたカレンダーを見る。スケジュール手帳には講演依頼など余所での仕事が、カレンダーにはご門徒さん宅の月忌や法事、地域行事や寺の雑用予定なんかが書き殴ってある。
「……ああ、今日は何もないのか」
 珍しいこともあるものである。
 カレンダーもスケジュール手帳も空欄。真っ白だ。
 そうは言ってもここは寺なので、完全オフというわけにもいかないだろう。特に最近は留守がちだったので、敷地のあちこちが荒れているものと思われる。せめて落ち葉は掃かないと。
 スケジュールが真っ白ならば、ゆっくりやればいいと思うのに、ついつい体を動かす方向に走ってしまう。
 そもそも貧乏性なのわけだが……アレだ。……そう。アレです。
 今朝見た夢をチラチラ思い出してしまうので、とにかく体を動かそう。それがいい。
「……いやまぁ。確かにいい子だなーとは思いましたけどねぇ」
 銀杏の葉を竹熊手でかき集めながら思わず独り言が漏れた。
 ことの始まりは約四ヶ月前。隣の県のとある大きなお寺から講話の依頼があったので、いつでもどこでも同じようにノコノコと出かけて行った。そこん寺(ち)は住職家族の全員が得度をすませていて、つまりは全員がお坊さんという、どこぞで聞いたことがあるような状況だったのだが。……まぁ、その、つまりはそこん家(ち)の長女さんが面白い人で。……まぁ好みの美人だし。ちょっと背が高めだけど、それもまぁ本人の魅力の一つだとおもうし。……単純明快に言えば。ひと目見たときに「あ、かわいいな」と思ったのは事実。
 そんなこんなで機嫌良く話し始めたその日の講話は、大いに盛り上がって大成功だった。
 その後頂いたゴハンもたいそう美味しくて、「仕事は成功」+「ゴハンは美味しい」+「好みの子がいる」……と三拍子そろった文字通り「おいしい仕事」だったのだが、それはあちらさんも同様だったらしく、つい先日も呼ばれて講話をしにいったのだった。
 その時もお御堂は満杯、講話は終始笑いが絶えない状態で大成功。
 講話が終わってからのゴハンでは、終始そちらの長女さんがお世話してくれて。……まぁ、つまりは、だ。その子がちょっとお気に入りになってしまったワケだ。
 その子がだな。夕べというか今朝の夢に出てきて、まぁなんだ。
 えーと……そういうことだ。
 いや、だから。
 あのその……困ったな。いや困ってないんだけど。つまりはな。
 ……人間て、本当に煩悩の固まりですね。
 てかな、そんなにリピートするな、脳みそ。頼むから。
 そんなこんなで、気がつけば昼前に、境内を掃いてしまうのも終わってしまった。
 さて、本当にすることがなくなった。どうするか。
 そう思いながら手洗いに行く。用をすませて手を洗面台で洗う。
 ふと鏡を見ると、だらしくなく伸びた頭髪が目に入る。
「……切って、染めるか」
 剃髪してしまえは染めなくて良いぶん楽なのだろうけど、それはそれでいろいろ面倒なので、床屋に行きたくないときは家庭用バリカンで刈ることにしている。
 染め色は金。理由は……アレだ。頭が薄くなってきた男が、そうは見えないようにいろいろ努力するのと同じことだ。
『住職取り込み中。ご用がある方は、十五時以降にお願いいたします。』
 ご拝口に札を掛ける。これでご門徒さんなら再訪してくれるし、ご門徒さん以外や急ぎの人はお御堂で待っててくれる。お茶も茶菓子も座卓の上に置いて、座布団も五客あれば充分のはず。足りなかったら分かる人は勝手に出せばいいし、そうでない人は適当にするだろう。
 ……さて、いつものように、首を出す穴を開けたビニールをかぶって首元を閉じ、充電式のバリカンを手に裏の濡れ縁に行く。ここでやれば、刈り取った髪は土に埋めてしまえるし、畑が一望できるし、その向こうの竹林から吹いてくる風が気持ちいいしで、一石三鳥というわけだ。とっとと刈り取ってしまって、染めるのは夜、風呂に入ったときにでもすればいい。いつもの白っぽい金がさらに白くなるだけだから、たぶん誰かが来てもそんなに違和感ないはずだ。
 刃のアタッチメントをいつもの長さにセットして、刈りにくい左側からジョリジョリ刈っていく。
 実は頭を刈るのもタイミングというものがあって、床屋を営んでいる田丸さんちの月忌参りの日が近いと、終わったとたんに色衣(しきえ…いわゆる僧侶の黒衣のこと)を剥がれて理容台にくくりつけられて刈り直されてしまうので、微妙に間隔があいていないといけない。
 そういう意味で今日はタイミングの良い日で、田丸さんちに行くのは二十日くらい向こうなのだ。それくらい過ぎればある程度落ち着いているはずだから、理容台にくくられることもないだろう。きれいにしていただくのは嬉しいのだけど田丸さん、お金を受け取ってくださらないからそれが辛い。
 三分の一くらいが刈り終わる。しょせん素人刈りなので、少しずつしないと虎刈りになってしまう。そもそも家庭用とはいったものの、自分一人で使うようにはこの手の機械はできていない。誰かに刈ってもらうことが大前提だ。
 バリカンと一緒に持ってきた衝立式の鏡に自分を写してみる。耳の横の刈り残しをさらに刈る。
 ぶぶぶぶぶぶ…と低い音が耳の横で鳴っている。髪に触れるとジャジャジャジャ…と辛そうな声を上げる。刃が髪を切っている音だし、充電も充分にしているから、決してバリカンは苦しくなんかないのだろうけど、でも毎回この音がバリカンのバリカンたる辛さを訴えている声に聞こえて仕方がない。しかし世は甘くない。バリカンはバリカンとしての仕事をこなしてこそバリカンなのだ。だからいくら辛そうな声を上げていても、容赦なく髪を刈らせる。
 ……ん?
 ピンポンの音?
 バリカンの発する悲鳴の隙間から、甲高い音が聞こえた。
 たぶん、内玄関の呼び鈴が鳴った。
 内玄関を使うのは、基本自分一人のはずだが。郵便か宅配は、いてもいなくても勝手に置いていくのが常なのに、新人の配達人さんでも来たのだろうか?
――ピンポーン。
 聞こえた。間違いない。内玄関のピンポンだ。実に久々に聞いた。こんな音だったか。
 仕方がないので立ち上がる。刈った髪だけ払って、そのままの格好で庫裏がわの玄関に行く。玄関が見えたとき、うっかりバリカンを手に握ったままだということに気がついた。急いでいたとは言え、これはナカナカに格好が悪い。しかしこの中途半端に刈った頭とセットで見れば、何をしていたか一目瞭然か。
 まぁいい、新人の配達くんなら、ちょっと驚かせてやろう。
 そんなイケナイことが頭によぎって、にやりとひと笑いしてから真面目な顔に戻し、そして玄関の戸を開けた。
「どちらさまで―――」
 言いかけた瞬間に、玄関に花が咲いた。
「こんにちは、久世(きゅうせい)さん。えーと……、お嫁になりにきました」
 今、何が起きた?
 これは夢の続きか? もしかしてまだ夢の中か?
 花が咲いたと思ったところには、例の長女さんが立っていた。今日も美人だった。……いやそんなことはどうでもいい。
「えーっと、貴女は確か……」
「お忘れですか? 縁(ゆかり)です。 志井、縁」
「ええ、はいはい。志井さんですよね。憶えてます」
 確認するまでもない。憶えてる。先方は志井さんという家で、そこの長女さんは縁さん。実は「縁」という名前の音よりも「志井」という姓の音のほうが好きだし、彼女らしいと思った。先方のお宅を出るときに、彼女のお友達が偶然やってきて、彼女を「しー」と呼んだので、なるほどと納得して、以来彼女は自分の中で「志井さん」で定着している。
 いやそれはいい。今、彼女はなんて言った?
「今、なんておっしゃいました?」
 訊く。彼女の目がじっとこちらを見据えていいる。
 ややあって、いきなり「ぷ」と彼女は吹き出して笑った。
「お嫁になりにきました」
 間違いない。嫁になりに来た、と言った。間違いなく言った。
 えーと、これは……。僥倖と言っていいのかな? いやいや、棚からぼた餅……身から出た錆……藪から棒……なんかどんどん遠ざかってるような気がするぞ。
「父にも言って出てきました。今日からここでお世話になります」
 あらためて、というように、志井さんはぺこりと大きく頭を下げる。よくみたら彼女の脇には、海外に旅行に行くときにでも使うような、大きなハードタイプの旅行カバンがあるではないか。これは本気だ。
「ご院家、先日うちにいらっしゃったとき、おっしゃっていたじゃないですか」
 なにか言ったかな? ヘンなことというか、自分の身がバレるようなことを?
「わ、わたくし、何か申しましたっけ?」
「おっしゃいました。『できたら坊守……というわけにはいきませんから、せめて役僧がいると助かるんですけどね』って」
 あー。言った。間違いなく言った。
「なので、坊守になりにきました」
 ………。
「そういう意味で、お嫁さんですか?」
「いえ、あなたのお嫁さんになりにきたんです」
 ……ちょっと待て。頭が痛くなってきたぞ。意味が分かって言ってるだけに、たちが悪い……かもしれない。
「嫁ならば、お給料はいりません!」
 あ、そういう意味? ……じゃないよな、これは。
「……というのが建前です」
 ほらやっぱり。
「……とにかくですね。まぁ、話し合いましょうか?」
 ここで押し問答するわけにもいかない。そろそろ午後三時も近づいているはずだから。
「ご院家」
「……はい?」
 またもや志井さんの目がこちらを見据える。次は何が飛び出すのだろうかと身構える。
 ふたたび間があって「ぷ」と彼女が笑う。この笑顔がとてつもなくかわいい、と思ってしまう自分がちょっとこわい。
「頭」
「はぁ」
「切ってらっしゃる途中だったんですよね?」
「……ああ、はい。そうです」
 そうでした。すっかり忘れてた。髪もさっさと刈らなきゃいけなかったんだ。
「ご院家がよかったら、お切りしましょうか? うちの弟たちの髪をいつも刈っているので、上手くはありませんけど、下手ではないと思います」
 目の前の彼女はにっこりと笑う。
 かわいい。愛おしい。この笑顔が欲しい。そんなことを思ってしまう。これは今朝、あんな夢を見たからじゃないと思うのだが。しかし自分は、もう………。
 一瞬、頭の中でどうしようかなと言葉が浮かぶ。しかし思ったのはそこまでだった。
「……じゃ、お願いできますか。三時にはお御堂(みどう)を開けておかないといけませんし。自分で刈るよりもあなたに刈って頂いた方が早いし、きれいになりそうです」
 ではお上がんなさい、と彼女を庫裏(くり)に招じ入れた。この寺には宿坊があり、庫裏とは別棟になっているから、完全プライベートの空間に自分以外の人間を入れたことになる。どういった経緯を経て彼女がこの寺にやって来たかはこれから話してもらうことになるだろう。今後のことはそれから考えよう。 
 場合によっては宿坊に移っていただくことになると思うけれど、今はとりあえず。
 ……そういうことにしておこう。
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