へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

紅椿

紅椿 本文

1.

「私……私ね。……聖と、つき合っているの」
 水野家のリビング。両親がそれぞれに座っている一人掛けのソファ。大理石のテーブルを挟んでその正面に置かれている横長3人掛けソファの真ん中に私は座り、両親に相対《あいたい》して言った。
 心臓は先ほどから、両親にまで聞こえるのではないかと思ってしまうほど高鳴っている。
 どくん、どくん。
 どくん、どくん……。
 鼓動が聞こえてくるたび、喉の奥から熱いなにかが上がってきて、それを押さえるのに少なからず体力を使う。
 心臓が口から飛び出そう。
 そんな経験は、今までも何度か遭ったことはあるけれど、今日のこれは、今まで体験したどのそれとも違う。
 自分の鼓動で耳が熱くて痛い。鼓膜が破れそうな気がする。そして身体の中から起こっている、突き上げるような、わけのわからない衝撃に打ちのめされて、気抜いたとたんに倒れてしまいそうだ。
 両親は先ほどから身動きひとつせず、目を見開いたままこちらを見ている。
 父も母も私を凝視している。
 でもそれぞれが対照的な表情なのは、かたや薄々気がついていて、かたや寝耳に水だったからだろう。
 もっとも、薄々気がついていたらしい、向かって左側のソファで「ああ、やっぱり」といった顔をしている母ですら、相手が同性の聖だなんて思ってはいなかったのではないだろうか。
 父に至ってみれば『見るも無惨』と形容したくなるほどの驚愕ぶり。手にした湯飲みを、熱さを感じていないのか、握りしめて、そのままの姿勢で固まってしまっている。
 そして私は……。
 こんなにも冷静に目の前の人たちを観察することはできても、相変わらず私の心臓は、私の聴覚のほとんどを支配するほどの音量を奏でている。
 「それは、つまり……」
 鼓動の隙間から、父のしぼり出すような声が聞こえた。
「こ……」
 父の目が、私が今まで見たことがないくらい見開いている。さら眉間に深い溝ができて、眉根そのものがその溝に向かって寄っている。唇が小刻みに上下して、紡ぎ出そうとしている言葉はなかなか出てこないが、それらの事実と、刺さるように痛いまなざしが、父の言葉を代弁しているように私には感じた。
 父の緊張が、じわり……とこちらに伝わってきて、喉がかわく。
 私は生唾を飲む。体の震えがとまらない。
 しかし。しかし答える。
「そうよ。恋人として、つき合ってるの」
 言葉を濁すつもりはない。ただはっきりと事実を、真実を告げ、父をまっすぐ見つめ返した。
 父の変わらない表情の下で、ぴくりと眉間の筋肉が動いた気配がした。その瞬間、すうっと室温が下がったように感じた。
 空気が……痛い。
 父は視線を私に貼りつかせたまま、顎《あご》を引いた。やや上目遣いになった父の表情は、私が初めて見る、とても怖いものだった。
 母や私に対しては、いつも笑みを絶やさない父。
(お父さんも、こんな怖い顔をするのね)
 思ったことは、それだけだった。
 母は先ほどから父と私を交互にうかがい見ている。そんな気配がする。
 重い沈黙が、私たち3人の間に、澱《おり》のように積もる。積もる。積もる……。
 ここに砂時計があるならば、間違いなく、その砂の落ちる音ですら聞こえるのではないだろうか。
「よりにもよって……」
 父がまた声を絞り出した。
「どうして、相手が聖くんなんだ」
 父の発した言葉は、至極当然のものだった。しかし。
 どうして、と言われても。
 ……。
 それが分かれば、自分でもあれほど悩みはしなかった。はっきりとこの感情を自覚したのはリリアン女学園高等部の頃。厳密に言えば私と聖が江利子と共に『薔薇さま』よ称される生徒会長に選出されてすぐのことだった。
 それでも高等部三年の一年間は、山百合会に忙殺されていたり自分の進学問題があったりしたので、『友だちとしてではなく特別な存在として聖が好き』だという自覚はそれらに紛れてなんとかやり過ごすことができた。しかし。
 今考えてみると、私が外部の大学に進学を決めたのは、リリアン女子大に興味のある学部がなかったからだけではないように思う。たとえリリアン女子大に法学部があったとしても、私はきっとそこには通わなかっただろう。
 理由は簡単だ。
 聖から逃げたのだ。
 むろん、私が外部進学を決めたとき聖はまだ進学とも就職とも進路を決めていなかったから、これは結果論でしかない。しかし結果論であろうがなかろうが、私は確実に聖が進まない方面への進学を選んだ。これを「逃げ」と言わずして何と言おうか。
 聖が常にいない環境に身を置くことで、いくらかこの感情を押さえることができるのではないかとわずかに期待していたが、それはものの見事に失敗に終わった。
 聖がいもしない大学構内で彼女の姿を探す自分がいる。うっかり振り向きざまに聖の名を呼んで、大学の友人たちからからかわれたこともあった。
「水野さんって、ちょっとお堅いイメージがあるのに、彼氏がいるの?」
 そう茶化されて「いえ、高校の時の親友なの」ときっちり訂正したが、その『親友』の響きがとても寂しいものに聞こえたことは、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
 恋人同士になった今でも、対外的には、聖と私は『親友』だ。聖はへらりと私を『恋人』と言ったりするが、私は聖のようには言えない。聖の奔放さを心底うらやましいと思うが、私には『親友』までがギリギリのラインだ。もう少し経てば開き直ることができるのかもしれないけれど。
 だがそんな私でも、両親にだけは聖を『親友』とは言い続けたくなかった。それを言い続けるのは、自分に対する嘘だと知っているから。私を守っている最後の砦とも言える両親には、私は素直で誠実でいたいと常に思っている。そして私が変われるきかっけになるであろうことも。
「蓉子……」
 父の声に我に返る。自分の思考に沈んでいたことを自覚する。
「……答え、られないのか?」
 父の問いに、私は首を横に振った。
「いいえ……」
「聖くんは……。聖くんは、お前をどう思っているんだ?」
 父にたたみかけられて、私は答えを方向転換せざるを得なかった。
「わからない。でも、受け入れてくれたことだけは、確かだと思う」
「……いつから……」
 父の声が震えて途切れた。問いはどちらだろうか?
『聖を好きだったのか?』あるいは『つき合っているのか?』
 私は自分に都合よく、前者だと解釈した。
「自覚したのは高等部の頃……二年の終わりよ。でも、中等部で同じクラスだった聖に、初めて声をかけたときから気になっていたわ」
 私は事実を言った。ありのままに。こういうときに取り繕うことは何の益にもならない。しかし、
「蓉子。自分を取り繕うのはやめなさい」
 私は、硬く甲高い音とともに、父の、諭すようなそれでいて吐き捨てるような響きの声を聞いた。驚いて音の発せられた場所を見ると、父の手の中にあった湯飲みが大理石のテーブルの上に移動して、その周りを水浸しにしている光景が見えた。
 父が感情のままに湯飲みをテーブルに乱暴に置いたというのか? これも私にとっては初めての体験だった。
 父は、私が自分を良く見てもらうために都合の良い表現をしたのだと解釈したのだろうか? 
 こういうときに真意が伝わらないのはよくあることだが、よりにもよってこんな時に、それも今、いちばん理解してほしい父に伝わらないなんて。
「……若いうちは、いろんなことを誤解をする。その一つが……恋愛感情だ」
 父に対峙し、父の声を聞きがら、私は父の中に生じたであろう誤解とそれを生み出した自分の語彙(ごい=ボキャブラリ)の少なさに臍《ほぞ》を噛んだ。
「自分が持っていないものを他人の中に見つけたら、とても貴重なものに感じることがある。それは時に思いこみになって、恋愛感情だと間違うことも、若い時分にはよくあるこ——」
「私は何も間違ってないわ! ずっと……ずっと聖が好きだったのよ!!」
 私は思わず叫んだ。とっさのことだった。そして自分の出した声のトーンに驚いた。
 驚いたのは目の前の両親も同様のようだった。ふたりとも時が止まったように固まっていた。それを目の当たりにして、私は自分が今まで出したことのないような声を出したことを、認めないわけにはいかなかった。しかし昂《たか》ぶってしまった感情は、すぐには押さえられない。
 私はさらに続けた。
「同性に友達以上の好意を持つなんて、いけないことだと思ったわ。だから聖と距離を置くこともした。でもダメだった。自分を押さえようとすればするほど、聖が好きだという感情が溢れて張り裂けそうになるの。だから——」
「……っ——なんということだっ!……」
 父が床に向かって声を吐き捨てた。いつの間にか中座したらしい母が、濡れたタオルで父の手を拭いている。父は母の手からからタオルを奪うように取ると、湯飲みを持っていた方の手にそれをぐるりと巻いた。
「お前も年頃の娘だ」
 父の絞り出したような声はかすれていて、悲壮な響きをともなっていた。
「遠からぬうちに、こんな話が持ち上がるだろうとは思っていたが。……よりにもよって……」
 感情のボルテージが上がってしまっている私の耳には、父の言葉は、発せられる単語ひとつひとつが、生きたまま心臓をえぐってくる鋭い矛のように感じる。
 次にはどんな言葉が浴びせられる? 私はそれに耐えられる?
「こんなことなら……」
 次は耐えられないかもしれない。
「……うっかり——」
 しかし父の言葉を遮る事ができない。
「——妊娠したと言われた方がまだしも——」
「なによ、それ!?」
 叫んだ。
「お父さんは私のことをそんなふうに思っていたの?」
 左耳の奥が不快な雑音《ノイズ》とともに悲鳴を上げた。自分の耳が自分の声を拒否している。
「酷いわ!!」
「よ、蓉……」
 自分の、そして父の声がさらに遠くに聞こえる。
「私がこれまで一度も悩まなかったとでも言うの? 同性同士の恋愛は罪なことかもしれない。けれど男女の恋愛がそんなに尊いというの?」
 いきなり視界がにじむ。しかしその中で父だけははっきりと見えた。私の剣幕に狼狽しきっている父の姿だけが。
「お父さんとお母さんが恋愛をして、結婚をして、私が生まれた。聖と私では結婚することも子供ができることもないわ。それでも私は聖を愛してる。ずっとずっと好きだった。聖も私を好きだと、愛してると言ってくれた。そのこと自体は、お父さんたちの恋愛とどこがどう違うの!?」
 にじんだ視界の端が揺らめいている。
「蓉子、少し落ち着きなさい」
 母の声が遠くで聞こえる。視界が揺らめいているのは、母が動いたためだったのか。よくわからない。
「なのに……お父さんは私を……そんなふしだらな女だと思っていたの?」
「よ……」
「酷い……」
「蓉子……」
「……そんなふうに見られていたなんて……」
「ま、待ちなさい。それは、誤…」
「聞きたくない! あなたの声なんか、聞きたくない!!」
 私は自分の悲壮な声を遠くで聞いた。
 そのあとは、なにも憶えていない。

2.

 寒い。
 そう感じて、私は自分が戸外にいることに気がついた。
 雨が降っていた。
 髪の毛先から、水が垂れ落ちていた。
 傘は持っていない。
 歩く。どこへ行こうというのか。
 雨はそんなに強くはなかったけれど、何十メートルかおきに立っている電信柱の外灯が作る淡い光の空間に鈍く反射していた。
(……針だわ)
 私は光に反射する雨の筋をぼんやりと見た。
(地面に刺さる……まるで、針のようだわ)
 そう考えて、街灯の下で立ち止まり、空を見上げた。
 水を抱えた光の針は、さらに、細いけれど容赦なく私に向かって降り注いでくる。
 このままこの針に全てを削り取られて、自分がなくなってしまえばいいのに。
 そんなことを考えていたら、ふと、電信柱のやや高い位置に貼ってあるプレートが目に飛び込んできた。
「……聖……」
 なんということだろう。私は無意識に聖のアパートの近くを歩いていたのだった。プレートに書かれている地名は、はっきりと聖が住んでいるアパートのすぐ近くであることを示している。
 聖に会いたい。
(でも……)
 この全身びしょ濡れな状態で現れたら、聖はなんと思うだろう。たぶん慌てて自分の部屋に招き入れてくれるに違いない。タオルを貸してくれたり、あれこれと世話を焼いてくれるだろう。聖は基本的に優しい人なのだ。
 しかし、この状態になったことを聖に説明することは、今は辛い。どう説明していいか分からない。聖の優しい笑顔や心配顔がいくつも脳裏をよぎっては消えていく。
 明るい場所にいるのが耐えられなくなって、また歩き始める。
 ここまでどうやって来たのだろう。
 分からない。
 ふと足元を見れば、いつも大学に行くときによく使っている靴ではなくて、家の誰かがちょっと新聞や郵便物を取りに出たり家の周りを掃除したりするときに使う、木のつっかけサンダルを履《は》いていた。そして上着を着ていない。リビングで両親に話しをしたその時の服が、雨を吸って体に貼りつき、鉄の鎧をまとっているかように重い。
 改めて自分の姿を確認して、自分が勢いのまま、文字通り着の身着のままで家を飛び出したことを悟った。確認するまでもなく、定期やその類《たぐい》のものは持っていないだろう。もちろん時計も携帯電話もないから、今が何時かということも分からない。ただ、自分の状態に気がついてからの道行きで、誰ともすれ違わなかったし車も通らなかったので、かなり遅い夜中だと推測した。
(……こんな時間じゃ、聖もきっと、寝ているわね……)
 私は進むことも引き返すこともできなくなって、暗がりで立ちすくんだ。
 寒い。
 体がどんどん冷えてくる。私は目をつぶった。
(もう、どうにでも……なれ……ば、い……)
 気温も下がってきているようだった。雨が雪に変わらないのが不思議だ。
「……れ? よう…こ?」
 かすかに声が聞こえた気がした。聞き覚えのある柔らかな少し高めの声。幻聴ですら、聖の声になるのか。
「蓉子! どうしたの? そんなカッコでっ!!」
 誰かが私の手首を強く握った。そこだけがやたらと熱い。
「こら。目を開けて! こっち見て!!」
 言われたとおりに目を開けた。視界がぼやけてよく見えない。
「……よかった。生きてた……」
 目の前の人物が像を結ぶ。
「……せ……」
 聖だった。
「ああ、喋らなくていいよ。生きているんだったら」
 暗がりなのに、聖の、ちょっと怒ったような顔がはっきりと見えた。
「……歩ける? 無理だったら私の背中に……」
「……ある、ける……」
 あなたが濡れるのが嫌。
「……わかった。じゃ……」
 いきなり足元の感覚がなくなって、体が浮き上がった。それがひどく気持ち悪かった。
「これ、持てる?」
 棒のようなものを握らされた。しかし手がかじかんで、うまく持てない。
「ああ、やっぱダメか。……いいよ、落とさないように支えてくれてたら」
 聖はそう言うと、「よいしょ」と体を揺すった。それで私は聖に背負われたのだと悟った。持たされたのは傘の柄だった。
「目と鼻の先で良かった」
 聖の声が私の下からくぐもって聞こえ、ゆっくりと規則的に体が揺れ始める。お尻の下の方から、カシャカシャとビニールがこすれるような音が時折聞こえた。
 傘は私の肩を支点に斜め差しになっていた。濡れた私を背負っただけでもずいぶん濡れただろうに、これではさらに聖が濡れてしまう。それに気がついた私は、せめてまっすぐに傘を差そうと思ったのだが、かじかみきった手では、広がった傘をうまくあつかうことができなかった。
 普段だったら何でもないことが、思うようにできない。それがひどく情けなかった。雨ではない液体が目の下に盛り上がる。
「……ごめん、なさ……」
「謝んなくていいから。……それよりさ、力抜いて。体預けて。じゃないと、歩きにくい」
 聖の声はぶっきらぼうだった。怒って当然だ。私は内心身をすくめたが、しかし言われたとおりに聖にくっついた。
 触れている部分のすべてが温かい。短いけれどやや伸び気味の聖の髪。そこから聖の匂いがじんわりと伝わってくる。それがだんだんと体中に広がる感覚とともに、私は今本当にいたい場所にいるのだと、心の底から思った。

3.

 聖の部屋にいるのが不思議な気がする。充分にあたためられた部屋のいつもの場所に、私はバスタオルにくるまれて座らせられている。
 聖と共に玄関に入った私は、まずバスタオルでくるまれたあと、お風呂の準備を終えた聖に、強引に身ぐるみ剥がされて浴槽に放り込まれた。そして是《《うん》も否《すん》もなく文字通り頭のてっぺんから足の先まで洗われたあと、芥子色のスエットに突っ込まれて、さらに乾いたバスタオルでぐるぐる巻きにされてから、抱きかかえられるようにして、ここに“置かれた”のだった。
 聖は今、キッチンでなにかゴソゴソしている。
 温められて乾いた素肌に、起毛の裏地が心地いい。聖は「一度着ただけだし、洗濯してあるから」と言ったが、聖の匂いがほんのりしているようで、私の心を蕩けさせる。
「やー。エアコンをつけっぱなしで出たのは正解だったよ」
 何かを取り繕うように笑いながら、聖がキッチンから出てきた。手に持ったトレーには、色違いで同じ形のマグカップがふたつ並んでいる。
「どうぞ?」
 聖がピンクのラインが入ったカップを私の前に置いた。
「……ありがとう」
 私はそれを手にとった。立ちのぼる湯気の甘い香りで、カップの中身は温かいココアだと分かった。
 ちびり、とほんの少し口に入れる。
 舌の先から、熱すぎない甘さが体中に浸透してくる。
 触れた瞬間はじんわりと、そして甘さを認識した直後から急速に、甘美な快楽が全身に広がる。アレの時にも似た、抗おうにも抗えない、押し流されるような感覚。
 全身がぞくぞくし、持っていたカップを取り落としそうになる。
 しかし一度体感してしまえば、快楽の波は急速に薄らいた。私はあらためてカップを持ちなおして、ちびり……ちびり……、と断続的にココアを飲み、それと同じリズムで湯気越しにちらり……ちらり……、と聖の様子をうかがった。テーブルの向こうでたぶん同じものを飲んでいる聖は、とりたてて私を詮索したり気遣う様子もなく、やや目を伏せがちに、平然とカップの中身を飲んでいた。
 やがて、聖の長いまつげが持ち上がる。色素の薄い瞳が私の方を向きはじめる。私は聖から視線を外して目を伏せた。
 わずかな沈黙。
 そのあいだ、空気が張りつめたような気がしたけれど、それは私の心が勝手に作る錯覚だったかもしれないし、もしかしたら沈黙した時間すら存在しなかったのかもしれない。
 聖の落ち着いた声が聞こえた。
「飲み終わったら、送っていくよ」
 私は思わず顔を上げた。そこには何とも表現しがたい表情を浮かべている聖がカップを手にたたずんでいた。
「飲むの、ゆっくりでいいから。……でも、飲み終わったら、送ってく」
 聖は再び言った。
 私は声を出すために口を開いた。……重い。喉に声がからみついて、なかなか外に出ようとしてくれなかった。
「……訊……かない、の……?」
 やっと出た声は、かすれてきっていて、まるで自分の声ではないように聞こえた。
 私の問いに対して聖は言った。
「訊いて欲しいの?」
 とても静かな声だった。
「訊いて欲しいなら訊いてあげる。でも、蓉子がそれを話せるなら、って条件付きでね」
 気がついているのかもしれない。理由を。
 声以上に静かな面持ちの聖を見ながら、そんなことをぼんやり思った。
 聖の付けた条件は、今の私にはクリアできそうにない条件だった。話してしまえば、きっとまた私は取り乱してしまう。そうすれば間違いなく、その言葉を誰が言ったかまで、聖に喋ってしまうだろう。
 それは、したくない。
 私は辛くなってうつむいた。
 表面的にかもしれないが、聖は私の両親とはおおむね良好な関係を保っている。聖は私の両親を悪くは思っていないようだし、私の両親もまた聖のことを、私が告白するまでは同様に思っていたに違いないのだ。
 告白し、さらに家を飛び出してしまった今、両親の聖に対する評価がどうなってしまったか 私には分かるべくもないが、だからと言って聖に私の両親への悪感情を植えつけることはしたくなかった。
 結句、私は聖と両親のどちらも愛していて、どちらからの愛情も一心に受けたいとても強欲な人間なんだと思い至った。
「……訊いて、欲しくない」
 私はやっとのことで、それだけを言葉にした。それ以上何かしゃべると、涙が出てきそうだ。
「そ」
 聖の返事は素っ気なかった。
 私は自分の下唇を噛んで、それ以上自分が何も喋らないよう自分を縛《いまし》めた。
「ココア、飲んじゃいなよ」
 不意に私の背中から、聖のささやく声が聞こえた。
 ふわりと温かく柔らかいものに包まれた。ほんの少し顔を上げると、聖の着ているシャツの袖が見えて、私は背中から聖に抱かれていることを自覚した。
 じんわりと聖の体温が背中から伝わってくる。聖が使うシャンプーの香りが、硬くなった私の体と心を解きほぐしていく。
「……飲んだら、送ってく……」
 首の後ろから、聖の少しだけ苦しそうな声が聞こえた。その響きに「本当は帰したくないけれど、今日は帰らなくちゃいけないよ」と言われた気がした。私はゆっくりとうなずき、ココアが冷め切ってしまわない程度の時間をかけて、それを飲んだ。

4.

 自宅に帰り着いたとき、雨はすでに上がっていた。
 時刻は午前一時をちょっと過ぎたところ。車についている時計で確認した。
 私が聖のアパート周辺を歩いていた時は、自分が考えていたほどには遅くはない時刻だったらしい。両親と話しを始めた時も二十時をほんの少し回っていたくらいの時間だったから、そうなのだろうと自分を納得させる。
 実際、家を飛び出してからの記憶があいまいで、電車に乗ったのかすら思い出せない。財布も携帯電話も持っていなかったから、たぶんひたすら歩いたのだろうと思うしかなかったが、こうして運良く聖に拾われて自宅まで送られた今となっては、もうどうでもいいことだったし、それを追求して記憶を埋めるなんてことは、きっと無意味なことだ。
「ありがとう、ここでいいわ」
 私は車を降りながら言った。
「本当に、大丈夫?」
 寒空にもかかわらず、窓を開けて聖が問う。運転席のメーター類が灯す碧白《あおじろ》い光が、こちらをうかがうように見上げる聖の不安げな表情を淡く浮かび上がらせた。
 私はそれをみて苦笑するしかなかった。
(励ます立場にいるあなたが、置いて行かれる子供みたいな顔をしてどうするの?)
 まるで傍観者のようなことを思ってしまったが、だから家に入る勇気がわいた。
 私とこの人のために、両親の理解を得なければ。
 そう思うと、自然と顔に笑みが浮かんだ。
「大丈夫よ。送ってくれてありがとう。……連絡するわ。遅くても明後日には」
「……うん。いつでも……夜中でもいいから」
 聖が小さくうなずいた。
「ご両親に、いきなりお車をお借りしてすみませんでした、と伝えてちょうだい」
 私がそう言うと、聖はあからさまな苦笑を浮かべた。
「やー、そこまで言わなくていいよー」
 私がお願いしたりわがままを言うのが嬉しくて仕方ない人たちなんだから、とも言った。
 私は首を横に振った。
「私からの伝言だから、ちゃんと伝えてね」
 聖は今、ご両親とかなり良好な関係を保てているようではあったけれど、それでもすぐに面倒くさがってコミュニケーションを端折《はしょ》ろうとする傾向がある。たぶんそれが聖の中で常態化してて、ついつい……という事なのだろうけれど。
 私は余計すぎるお節介だとは分かってはいたが、出かける際に車を借りたり何かを頂いたりするたびに、言伝《ことづて》をお願いしたりおみやげを渡したりしている。その程度のことではあるけれど、できるだけご両親と聖のコミュニケーションの一助になって欲しいと思う。
 今日、日付が替わろうとしている時間に、いきなり聖が「車を貸して」と電話をしたら、小父さまと小母さまがご一緒に、二台の車で聖のアパートにいらっしゃったらしい。小父さま曰《い》わく「女性が夜中に出歩くのは危ないから、今から届けてやる」とのことだそうだ。車そのものは聖だけで受け取り、私はお二人に会っていない。
「お願いね」
 聖の目をしっかり見て言った。聖は素直にうなづいた。
「わかった。伝えとく」
「行って。遅くなるわ」
「……ん。わかった、……じゃ…」
 聖は一瞬何か言いたげによどんで、しかし軽く手をあげ指先を振って無言で挨拶をすると、それから静かに車を発進させた。たぶんこう言いたかったのだと思う。
『気をつけて』
 か
『がんばって』
 ……か。
 聖が運転する黄色い車がどんどん小さくなって、やがて角を曲がって消えた。
 私は小さく息を吐く。体の中で温められていたそれは、外気に当たって白くなり、私の周りをただよった。
 しばらくそのさまを見て、それから私は顔を上げた。
 何をためらうことがあるというのだ。私は何も間違ったことはしていない。
 そう自分に言い聞かせて、家の門扉《もんぴ》をいつものように開けた。キィ…と乾いた音が妙に耳に残った。
 玄関の扉は鍵がかかっていなかった。廊下には電気はついていず、階段の明かりだけが薄く灯されていた。
 私は開けるとき同様、できるだけ音がしないように玄関の扉を閉め、そして鍵をかけた。無言で框《かまち》を上がり、階段をのぼる。リビングに父か母がいて、私を待っている可能性が頭をかすめたが、それを確認しようという気持ちは起こらなかった。とにかく自分の部屋に戻りたいと思い、そしてその通りに行動した。今はまだ父と母、どちらにも会いたくなかった。
 部屋に入ってまず気がついたのは、部屋があたたかいということだった。
 両親への告白の前、部屋を出るときには間違いなくエアコンのスイッチを切った。冷え切った暗い部屋に入りそして冷たいベッドに潜り込むことを覚悟していたのに、扉を開けると、部屋は暗かったが、ふわりと温かい空気が冷たくなった私の頬を撫で、私の足を思わず止めさせた。
 扉のすぐ脇の壁に取り付けてある室内灯のリモコンに手を伸ばす。いつもの場所にあるそれのスイッチに指先が触れると、ぱっと視界が開けた。そこにはいつもの私の部屋があった。
 帰ってくるかどうかわからない私のために、部屋をあたためる心遣いをしてくれたのは父だろうか母だろうか。そんなことをぼんやりと思いながら部屋のドアを後ろ手に閉め、部屋の中に視線を泳がせると、その答えはすぐに見つかった。
 勉強机の上に、小さな電気ケトルと茶器が一式、広めの四角いお盆の上に乗せられている。近づくと、メモ書きも添えられているのが嫌でも目に入った。
   『 お帰りなさい。先に休みます。
                    母 』
 書いてある内容に反して両親がまだ寝てはいないだろうことを、私は何となく察した。
 もしも私が帰ってこなければ、一晩中起きて声を潜めていたに違いないとも思った。
 両親に気をつかわせている自分は、なんと親不孝な娘なのだろう。
 心が重かった。
 聖が何も訊かず すぐに私を家に帰した意味を、この時はじめて思い至った。あのまま泊まっていれば、次に帰宅したときに私が今以上に自分の心を痛めるだろうことを、聖は正しく理解していたのだ。
 聖からひとり暮らしを始めたと聞きいたときには、正直 大丈夫だろうかと内心思っていたのだが、なんのことはない、聖は私なんかよりもずっとずっと大人で、私なんかよりもずっとずっと前を歩んでいたのだ。それに対して私は、なんと子供なのだろう。
 勉強机の椅子に力なく座り、電気ケトルを持ち上げた。水が入っているのを重さで確かめ、それから電源コードを伸ばしてコンセントに差し込んでスイッチを入れた。
 シャーとジャーとボコボコが混じった音が聞こえ始める。小さなポットに入った水はさほど時間をかけずに沸き、スイッチが「かしゃん…」と乾いた音を立てて切れた。
 急須に湯を入れて立った香りで、中の茶葉が焙じ茶であることに気がついた。
(……余裕ががないにもほどがあるわ)
 入れたばかりの焙じ茶をほんの少し口に含むと、聖が入れてくれたココアとはまた違った甘みが口の中に広がり、鼻の奥をくすぐった。茶器一式を用意してくれた母の優しさと心遣いが身に染みて、心が痛かった。
 机のすみに置いている時計をちらりと見た。ぱたりぱたりと上下に分かれた回転式の板が落ちて時刻表示が変わるしくみの古い時計は、二時にほど近い時刻を示していた。
(お父さん……)
 父から投げられた言葉を、そしてその時の父の表情を、あらためて思い出してみた。
 少し冷静になると、あのときの父は、驚きのあまりに失言しすぎたのだということが、何となく理解できた。では私はなにがあんなに悲しかったのだろう。
 そう。悲しかったのだ。怒りではなく、ただひたすらに悲しかった。
 聖との関係を頭ごなしに否定されたように感じたからなのか、それともわたしがふしだらな娘かもしれないと、父が心の底で思っていたかもしれないからなのか。
 少しずつ飲む焙じ茶の香りと味は、心の疲れは癒してくれたけれど、頭の疲れまでは癒してはくれなかった。からまりきった感情と思考の糸は簡単にはほどけそうになく、それを無理やりほどこうとすればするほど、今度は体の疲れが増してきて、頭とまぶたに重いカーテンが降りてくる。首がかくんと前に倒れるたびにはっと目が覚める。
 何度かそんな状態をくりかえし、とうとう私は考えることをあきらめた。
 そして、聖から借りたスエットを着たままベッドへと潜り込んだ。
 今日だけはどうしても、聖に抱きしめられていたかった。
 次の日、本格的に起きてベッドから出たのは昼に近い時間だった。いつもの時間に目は覚めたのだが、父と顔を合わせるのが怖くてベッドから出なかった。二時限目から講義が入っていた。それでも起きたいとは思わなかった。私は大学に入って初めて病欠以外で自主休講をした。
 母の足音が近づいてきて、何度か私の部屋の前で立ち止まる気配がした。しかし部屋には入ってこなかった。
 帰宅したときに玄関はきっちり施錠したし、昨夜飛び出したときに履いていた木のサンダルもいつもの場所に置いていたので、私が戻ってきていることは分かっているだろう。なにより、私の部屋の前まで来ていながら中の様子を見に入ってこないのが、その証拠だと思った。戻ってきているのが分かっているから、様子を見に部屋に入ろうにも入れないのだ。私が両親と顔を合わせるのをためらっているのと同様に、母もまた、部屋に入って私といきなり鉢合わせることをためらっているのだ。
 しかしいつまでもこうしてはいられない。私は時計が十一時を示そうとしているのを見て、のろのろとベッドから起きだし、外出をしない日の服装に着替えた。使い終わったポットと茶器一式がのったお盆、そして昨日着ていたまだ濡れたままの服一式が入ったビニール手提げ(これは聖がくれた、どこかのショップの袋だ)を持って部屋を出、階段を下りた。
 ダイニングに入ると、母はいなかった。とりあえずキッチンテーブルにポットと茶器をお盆ごと置き、それから脱衣場へと行った。そこにも母はいなかった。
 入れられるものをすべて入れて洗濯機のスタートボタンを押し、それから再びキッチンに戻ると、ちょうど勝手口から母が入ってくるところだった。
「あ……」
「……おはよう、ございます」
「……おはよう」
 母はふ…と目を細めて微笑んだ。微笑まれた私の方がびっくりして、どうしていいか分からなくなった。話の接ぎ穂を求めて出した声が、少しうわずった。
「お、お父さんは?」
「もうとっくに仕事へ行ったわよ。いやねぇ、今何時だと思ってるの?」
 母はそういうと、いつものようにコロコロと笑った。まるで昨夜の出来事がなかったような感じだった。
「夕べは、部屋とお茶……ありがとう。それから……ごめんなさい。いきなり飛び出して」
「……いいのよ」
 母はほんの少し顔をゆがめて苦笑し、お座りなさいと手でうながした。私はうながされるまま、自分がいつも座っている椅子に浅く腰掛けた。
「私ね」
 母は淡々と話し始めた。
「夕べ、お父さんと家庭内別居したのよ」
「は?」
 母の言葉に驚きすぎて、思わず大きな声が出た。
 母がにっこりと笑った。この笑みで、言葉ほどは深刻でないことが伝わって、私はホッとした。
「……冗談でも、別居なんかしないで」
「だってねぇ……あんまりだったでしょ?」
「それは……そうだけど」
「……あの言葉はね、女に……ましてや自分の娘に対して、絶対に言ってはならない言葉のひとつよね」
 母の言葉に私は少しうつむいた。父に言われた言葉を思い出して、少し辛かった。
「あなたが言葉を荒げて飛び出していったのは、当然のことよ。私もあの言葉を聞いた瞬間、カッとなったもの」
「……」
「だからね、お父さんにはきっちり言いました。『反省してください』って」
「お母さん」
「『あなたは蓉子にとても非道いことを言いました。そのこと自体は分かっていらっしゃるようですけど。いくら驚きすぎたとはいっても、言っていいことと悪いことがあります。あなたは娘を女として侮辱したんですよ』って。……お父さん小さくなって聞いてたわ」
 涙が出そうになった。母は私が父の言葉のどこに傷ついたのかを、はっきり分かっていたのだ。私自身でさえもよく分からなかったのに。
 聖との関係を否定されたからではなく、女としての自分を侮辱されたような言葉が父の口から発せられたことが、悲しく辛かったのだ。
「でもね、蓉子」
 母の手がすっとこちらに伸びてきて、気づかずテーブルに乗せていた私の手を取った。
「お父さんの気持ちも分かってやってちょうだい」
 私は視線を上げた母を見た。母は私を、のぞきこむように真剣なまなざしで見ていた。
「お父さん、本当にびっくりしたのよ」
「……ええ」
「大学生だもの。いくら中高と女子校に通っていたからといって、年頃の娘だもの。そろそろ好きな人ができて、その人とお付き合いしているかもしれないくらいは、お父さんもお母さんも考えてないわけではないのよ。だって……」
「お父さんとお母さんが出会ったのは、大学生の頃だったから?」
「……ええ、そうね」
 母ははっきりとうなずいた。
「お父さんがあんな言葉を発したのは、年頃の娘を持つ父親が抱えている漠然とした不安でもあるの。私たちにも憶えがあるもの、いろいろとね。男女が……好きな者同士が一緒にいて、それがとある年齢に達しているなら、それ相応の行動をするのは道理だもの。自分におぼえがあるから、それを自分の娘に当てはめても考えるの」
「でも……」
「そこから先を口にするかしないかは、その人次第。お父さんはつい言ってしまった。それはあなたにも責任があるわよ」
 母の優しくはあるが辛らつな言葉に、私は反論できなかった。
 売り言葉に買い言葉……昨夜の私と父のと会話にそれと近いものがあったことは、今朝、布団の中でひとり記憶を反芻しているときに、なんとなく気がついていた。
「……ごめんなさい」
 私は母に頭を下げ、心から謝った。
「でも……まさか相手が聖さんなんてね」
 顔を上げると、母は遠い目でキッチンシンクの向こう側にある出窓のほうを見ていた。飾り磨りガラスの向こうを見通しているような視線だった。そしてすぐにこちらに視線を戻すとこうも言った。
「誰か好きな人がいるらしいことは、なんとなく分かっていたのだけど」
「いつから気がついていたの?」
 私は素朴な疑問を口にした。
「そうね……はっきりと気がついたのは、大学に入ってからよ。……そのあたりはお父さんほうが敏感だったかも」
「お父さんが?」
 意外な言葉に私は驚きをかくせなかった。
「あなたが高校三年の頃にね、『蓉子は最近、ずいぶんきれいになったなぁ』ってつぶやいたことがあったのよ」
「……」
「昨日の話を聞いてね、今思えば……って思ったの」
「……そう」
 親というものは子供のことをよく見ているものだなと、率直に思った。
「聖さんのこと……好きなのね」
「……ええ」
「……そう」
 母はまた遠い目をした。なにを思っているかはまったく分からなかった。
「……さ、お昼を作るわ。何がいい?」
 そう言うと、母は今し方会話したことなど全くなかったかのように立ち上がった。
「手伝うわ」
 私も立ち上がり、こんどこそ昨夜使ったポットや茶器を取り上げてシンクへと運んだ。お昼ご飯を食べたら、今日は午後いっぱい母の手伝いをして働こうと思った。

5.

 父と口論をして飛び出した日から八日が経った。あれから父は忙しくなったらしく、朝も夜も顔を合わせた程度以上の時間と取ることができない日が続いている。母に聞けば、父も私ともう一度話し合う時間を作りたいと望んでいるそぶりを見せてはいるようなのだが、いかんせんお互いに時間が合わない。
 いつぞやなど、父は早くに帰宅したのに私の方が帰宅が夜半近くになってしまったことがあった。
 家の敷地にはいるときに、二階の父たちの部屋に電灯がついているのに気がついて、ふと顔を上げた。私が顔を上げると同時くらいのタイミングでカーテンが揺れ、その向こうにシルエットがあった。最初は母の影かと思っていたが、家に入ってみれば母はキッチンにいて、例の影は父のものであることがその時点で判明した。
 娘が遅く戻ってきたのがそんなに気になったのか、それとも誰か(たとえば聖)が送ってきたのかを確認したかったのか。とにかく私たちはタイミングが悪い日が続いた。
 母は父との家庭内別居を次の日には解消したので、家庭内がことさらにぎくしゃくとすることはなかった。
 しかしすれ違いの時間が積み上げられるにしたがって、お互いの関係はどんどん気まずくなっていくように私には思えた。
 もう一度きちんと話し合って、誤解を解消したり謝罪したいと思っているのに、無慈悲に流れる時間は私たちのあいだに淡々と溝を作っていく。朝玄関で鉢合わせても、お互い挨拶もそこそこに、そそくさと会社に大学にとでかけてしまう。このままではいけない。しかしこのまま会わなくてすむのなら、それはそれでも……そんなことを思うようになっている自分にある日気がついて、慄然とした。
 時間が経つにつれてだんだんとわかってきたのは、自分は母が言うように貞操を疑われたことだけが悲しかったのではないということだった。やはり聖との関係を頭ごなしに否定されたことも辛かったのだ。
 厳密に言えば、聖ではなく、同性に対して恋愛感情を抱いてしまった自分を否定されたことが辛い。
 今の自分が父に対して前向きになれない原因は、間違いなくそこにあるのだろう。そして私はそれの感情にあらがえず、流されようとしている。
 かくも人間とは弱く卑怯な存在なのだと、ゆるい自己嫌悪の波が自分の中に常にたゆたっている。
 例えば……と自問する。
 相手が同性ではなく異性であったなら、父は祝福してくれただろうか、と。
 これ以上は憶測の域を出ないが、一波乱あったところで今回のようにはならなかったかもしれない。
 では聖との関係を解消して、異性と結婚を前提としたお付き合いをするよう努力してみるのか。そう考えてもみたが、答えは明瞭に却下だ。
 それができるくらいならとうにしている。
 そんなことを毎日毎日ぐるぐると考えながら、父とじっくり顔を合わせることができないままに、五日、六日、七日と時間だけが過ぎていった。
 そして今日は八日目である。
 駅から乗ったタクシーを自宅前で降りると、雪がちらついていた。今日は予定外に遅くなってしまった。悩みごとを抱えている時にゼミの突発事項で研究室に残されるのは、よけいに心が重たくなる。
 聖とはあれから会っていない。
 もともと頻繁に会ってべったりするようなタイプではお互いないし、それは付き合いはじめてからもあまり変わらない。頻繁に会わなければお互い生きていけないタイプでなかったのは、こういうときにとても助かった。とにかく今は、恋人と会っていたから帰宅が遅くなったということだけは、絶対にしたくなかった。
 イレギュラーの居残りを言われたとき、それが終わって大学を出るとき、そして最寄り駅から自宅には連絡を入れていた。電話の向こうで母が「雪が降りそうだし夜道は危ないから、駅からタクシーで帰ってきなさい」と言ったので、その通りにした。
 タクシーを降りるといきなり雪の勢いが激しくなり、視界が白いものしかないような錯覚にとらわれた。さいわいなことに積もる雪ではなさそうだが、それでも寒いことには変わりない。私は足早に家に入った。
 玄関に入ると、いきなり赤と深緑、反対色の固まりが目に飛びこんできた。モノクロの世界にいた私が無視するには不可能なコントラストだった。
 靴箱の上は、生花を生けて飾る場所として母がよく活用しているが、果たして今日も母の力作が飾ってあった。自宅を出るときにはなかったので、昼か夕方に生けたのではないだろうか。冬の玄関を彩っていたのは赤い椿だった。そしてこの椿の赤と深緑が、私の目に飛びこんできたものの正体だった。
 我が家の庭には椿の木がある。私が物心がついたころにはすでに椿の木があった。椿は背が高くなる木なのだが、住宅街の中のあまり大きくない家の広くない庭に植えたために、毎年かならず枝を落として大きくなりすぎないように気をつけている。本来なら十一月ごろに剪定を終わらせるのが良いという話だが、我が家では花が咲き始めるこの時期に切って、家のあちこちを彩るのに使っている。
 椿は今年も自分の役目を無事に勤めているようだ。私は目を細めて椿の花に見入った。
 椿の花は力尽きると顎から外れ、そのままの形で丸ごと滑り落ちて花の寿命を終える。春が近づいてくると、木の根本に赤のじゅうたんができあがる。時に哀れにも見えるそのさまは、はかなくも潔い。
 観賞用として花はもちろんのこと、木は木工芸の材料に、灰は酒造や染料に、種は貴重な油として人の役に立つ。基本的に捨てるところのほとんどない木。
 私はそんな椿のすべてが好きで、家中に椿が飾られるこの季節がなにより好きだ。
 父との衝突以来、気持ち的に余裕のない日々が続いていたが、しかし、私は椿の存在に気がついて、そしてそれをきれいだと思うことができている。
 まだ自分の中に、花を見て嬉しいと思うくらいの余裕はあるらしい。
 心が少し軽くなっているのを自覚しながら、私は玄関の框《かまち》をあがり、母がいるであろうキッチンへと足を運んだ。
「ただいま戻りました」
 母の姿を認めて声をかける。
「おかえりなさい。ご飯はどうするの?」
 母も常套句を言う。いつもの我が家のやりとりが、今日はなんだか嬉しい。
「電話したでしょう? 食べてきますって」
「ええでも、もしもということがあるでしょう?」
「そうね。でも今日は本当にいらないわ。……お父さんは?」
「もうお休みになってるわ。明日早いのですって」
「……そう。なかなかタイミングが悪いわね」
「そういうときもあるわよ」
「ええ。ゆっくり待つわ。……じゃ、着替えてきます」
「お茶を入れておくわね。それとも持っていきましょうか?」
「気を遣わないで。あとで自分で入れるから」
「そう。じゃ、その時に私の分も入れてもらおうかしら」
「ええ。いいわよ」
 会話を終わらせて階段を上がる。両親の部屋の前を、父の睡眠の妨げにならないように、できるだけ足音を立てないようにして、そっと歩いた。
 自室の扉を開けると、暗がりの中からほんのりと椿の香りがした。どうやら母が私の部屋にもひと枝かふた枝か飾ってくれているらしい。いつものように電気を付けて部屋の中を見回す。
 果たして椿はあった。
 机の上に。たったひと枝。
 見事に開いた大輪の花がひとつ。ひらき気味のつぼみがひとつ。
 花瓶や花器に差されてはいず、そっと机の上に置かれていた。
 私は持っていた鞄や上着を所定の位置に置くことも忘れて、机の上の椿に近づいた。
 椿の枝には白い紙が、おみくじのようにたたまれて、結びつけられていた。
 父からの文《ふみ》だと直感した。
 手紙ではなく文だと。
 私は持っていた荷物をすべて椅子に投げるように置いて、椿の枝を取り上げた。
 震える指の先で、結びつけられた紙をなでてみた。柔らかい和紙の感触が優しかった。
 紙の感触は限りなく優しいけれど、それを開くにはかなりの量の勇気が必要だった。何が書いてあるのか見るのが怖い。心臓がばくばく音を立てている。先日とは比べようもないほどにだ。
 しかしこれを開かなければ、私と父の間に掘られた溝を埋める準備すらできないということだ。私は意を決して、椿の枝から紙をほどき取った。手が震えてなかなか思うように動かなかった。
 紙を開いた。
        我が宿の軒先染めし紅椿
               いとしき花に吾子《あこ》を重ねつ
 几帳面な字だ。毛筆で書かれていて一分の隙も妥協もない。父の性格そのものをあらわしたような字だ。
 歌の意味はなんとなくだが理解できた。
 私は思わず部屋を出た。
「お父さん!」
 両親の寝室の扉を叩いた。どうしても今話がしたいと思った。今しなければ、後悔するとも思った。
「……蓉子」
 静かな声が思わぬところから聞こえた。階段の下だった。
「お……とうさん」
「お茶が入ってる。良かったら、おいで」
 父は、ほんの少し泣きそうな顔をしていた。
 父に呼ばれるままリビングに行く。そこには父しかいなかった。
「お母さんは?」
 私は素朴な疑問を口にした。
「隣にいる」
 父はそう言うと、キッチンとリビングを隔てている模様入り磨りガラスにちらりと視線をやった。
「どうしても、ふたりきりで話がしたかった」
 父はそうも言ったが、それでもガラス戸の向こうに母がいるということは、私にとって安心材料のひとつだった。もし私が取り乱しても、母がそれをいさめてくれるに違いないし、第三者がいると思うだけで、できるだけ自分を冷静に保てるようにつとめることが容易だろう。
「とりあえず、お茶……冷めないうちに」
 父が湯飲みを指さす。私は「そうね」とつぶやきうなずいて、先日座っていたソファに今日も座り、そしてお茶を飲んだ。
 長い沈黙が流れた。あらためて場が設けられてしまうと、どちらとも何となく言葉を発しづらい何かがあるらしい。このままではいけないと思いつつ、でも父から何か話してくれないかしらと、自分勝手な期待が心の底にうずくまっている。
 しかしこのままでは何も進展しないのも事実だ。私はチラリチラリと頭に浮かび上がる単語をひとつひとつつなぎ合わせて言葉を作る なかなかに効率の悪い作業をしていた。
 沈黙を破ったのは、父からだった。
「この間は、本当にすまなかった」
 父は深々と頭を下げた。そしてそのまま頭を上げない。
「……顔を上げてください」
「……いや……」
「私も……言いたいことがあるの。……だから……」
 そう言うと、父はやっと顔を上げてくれた。なんとも情けない表情をしている。困っているような泣きたいような。先日とはまた違った意味で、はじめて見る顔だった。
「私も、お父さんに酷いことを。本当に、ごめんなさい」
「……いや、それは、私が……」
 父の声が狼狽した色を帯びる。
「いいえ。カッとなったからと言っても、言ってはいけないことがあるわ」
「それは、私も同様だよ蓉子。本当に、すまなかった」
 自然に父と目が合う。そこにいつもの頼もしい父はいなかった。
 父がとても小さく見えた。大人に叱られて自信をなくした子供のような。私の、水野蓉子の父ではなく、ひとりの人間がそこにいた。小さくはない衝撃が、ゆるりと私を包んだ。
「……椿……ね」
 私はなんだかいたたまれなくなって、手に持っていた紙を開きながら、そこに書かれていたものを口にした。
「私もね、庭の椿が、大好きなの」
「うん」
「お父さんが、椿と私を重ねて見てくれていたなんて」
 読みようによっては恋歌ともとれなくないが、これは、我が子が成長して椿のように美しく年頃になったという内容だと思う。あるいは、この椿のように美しくなるのだろう、という未来観か。
 母によると、父は私が生まれるずっと以前、母と知り合った頃にはすでに詠歌を趣味としていて、年に何度も大会や詩歌のコンテストに作品を出しているということだが、一度も選に入ったことがない。それでも父はなにか事あるごとに歌を詠み、短冊にしたり人に送ったりしている。
 私自身今回もらった歌も、初めてのことではない。しかし、今までもらった歌の中で、いちばん心に響いた歌だった。
「あの椿は」
 父がぽつぽつと語り始めた。
「お前が生まれた年に見つけて、取り置きと世話をたのんでいたものを、この家を買ったときに、あの場所に植えたんだよ」
「え?」
 物心ついたときには、私はすでにこの家に住んでいた。そして確かに椿はずっとあの場所に立っていた。
「夏に芙蓉、冬に椿が花を咲かせると、きっときれいだと、思ったんだよ」
 確かに、我が家の庭木といえば、芙蓉と椿しかない。あとは一年草の花ばかりだ。
「……蓉子」
「はい?」
 ふいに名前を呼ばれて、再び父と視線を合わせた。
 父は、静かな声で言った。
「しあわせか?」
「え……」
「ずっと好きだった聖くんと、今つき合っているんだろう?」
 父は、気遣うような、それでいて泣きそうな顔でこっちを見ている。すでに、自信を失ったひとりの男ではなく、父親の顔に戻っていた。
 今度こそ私は、父に対する答えを間違ってはいけない。
 目を閉じ、静かに深呼吸をする。そしてゆっくり目を開いて、心の中に浮かんだ言葉をつむいだ。
        はついろに泣き恋ふ時を重ねたる
                想ひ遂げても まへを想へば
 意味は、私の思い通りに伝わっただろうか。
「……そうか」
 父は納得したようにうなずいた。
「……しあわせです。でも……」
「そう……だな」
 父はまぶたをやや伏せて、少しのあいだなにかを考えていた。テーブルの上から湯飲みを取り上げ、すでに冷め切ってしまったお茶を、ずず、と飲んだ。
『お茶を、換えましょうか?』
 ガラス戸の向こうから母の控えめな声がした。
「ああ、頼むよ」
 父はガラス戸の向こうに声をかけた。ふたりだけの話し合いは終わりらしい。母が来てからあらたに三人での話が始まるのかと思って待っていると、それにはかまわず父は話を続けた。
「蓉子、お前達の関係は、私にはどうしても理解ができない。……それは、お母さんも同様だと言っていた」
 父の言葉に、足もとをすくわれたような気がした。実際、意識が一瞬遠ざかりそうになって、視界がぐらりと揺らいだ。
「……そう、でしょうね」
 私は言葉を出すことによって、かろうじて自分をたもった。
「今の段階では理解ができない。これは事実だ」
「……ええ」
 分かりきったことをあらためて告げられるのは、正直つらい。私は自分がうつむいていくのを自覚していたが、止められなかった。
「だが、理解したいとは、私もお母さんも思っている。それを憶えていてほしい」
「……」
「だから、できるだけ……その……。聖くんとのことを、話して欲しい。これからも」
 思わず頭を上げた。本当に? 本当にそう思っていてくれているの?
「理解したいのだよ蓉子。お前の思いを。そして聖くんのことを」
 父の声はゆっくりではあったが、聞こえやすいトーンで私の耳に届いた。
「子供の幸せを願わない親はいない。……時にそれが、自分たちの幸せの基準と違っていたとしてもだ」
 父の言葉が私の中に染みこんでくる。
 母がガラス戸の向こうからあらわれて、新しいお茶の入った湯飲みを三つ置くと、父の横の一人掛けソファに腰を下ろした。八日前の話し合いが仕切り直されようとしていた。
「同性のと恋愛についてどうのこうのとは、私たちは言わないし言えない。お前が言うように誰かを愛するという感情は、対象が異性同性にかかわらず同じだろうし、それ以前に、お前は大学に通っていて、私たちの保護下にある学生とは言え、すでに成人しているのだからね。今後の行動は、自分ですべて責任を取りなさい」
「……はい」
 責任に対する裁量は、今までは『自分で取れる範囲』と言われていたが、この瞬間から『すべて』に変わった。この先私が学生生活や社会生活・恋愛において、何が起ころうとも自分の自己責任で解決せよということだ。私は父の言葉を胸に刻みつけた。
「だが……なにか困ったことが起きそうなら、すぐに言いなさい。相談には乗ろう」
 父はそう言ってから「余計なことを言ったかな?」という顔で、私から目をそらした。
「……お父さん」
 この部屋に入ってきてひと言も言葉を発しなかった母が、『ぷ』と吹き出して、苦笑しながら父を肘で小突き、父はそんな母の肘を、バツの悪そうな顔をしながら母のほうは見ずに、押し返した。
「聖さんに、またいつでも遊びにいらっしゃい、って」
 くすくす笑いをしながら、母が言った。
「ええ。……分かりました。伝えるわ」
「あの時、あなたを送ってくれたのは、聖さんなんでしょう?」
「……ええ」
 カマをかけられてるのを自覚しながら、私は正直に答えた。
「……そう……なのか?」
 父があきらかに困惑した顔と声で、私たちを見比べる。その様子がなんだか可笑《おか》しい。
「気がついたらね、聖のアパートのそばを歩いていたの」
「な……に?」
「だからね。迷惑だろうとは思ったけど、聖のアパートに行ったの」
 私は事実をやや曲げて伝えた。この場合、濡れネズミになって行き倒れそうになったことや、それを聖が偶然見つけて保護してくれたことなどは、言わなくてもいいだろう。
 母は私が話を湾曲していることに気がついているようだが、素知らぬ顔をしてお茶を飲み、父の私の話に対する反応を見て楽しんでいるようだ。
「聖はね、そこいらの男性よりも、とても紳士なのよ」
「……」
 父の狼狽ぶりが、可愛くもあり可笑しくもある。父親というのは、娘に相手ができると、こんなにも狼狽するのだろうか。
 それとも私の父だけがこうなのだろうか?

6.

「……ということで、両親が遊びにいらっしゃいって」
 借りたスエットを返しに聖のアパートに来た。
 あの日、私と両親の間に何が起きていたか、そしてそれがどのようにとりあえずの解決をみたかは、聖にはまったく話していない。
「私なんかに気を遣わなくってもいいのにー」
 聖はへらへらと笑いながら、台所からコーヒーを持って出てきた。
「夜中に人をこき使ったのだもの。お返しくらいなさい……ということで、お料理を作るのは私なのだけど?」
「あー。じゃぁ行く行くー。やったー。蓉子の手料理ー」
 聖はばんざーいと両腕を上げて、子供みたいに無邪気に喜ぶ。その姿からは、あの日の聖を想像するのは少し……いや、かなりむずかしい。
 時に大人のようであり時に子供のようでもある聖を見ながら、私は苦笑するしかなかった。
「そうだ。ねぇ、花瓶はあるかしら?」
「花瓶ー? そんなものあるわけないじゃん」
 聖はさも当然と答えた。
「それは困ったわね」
「いいってー。あれで充分だよ」
 聖が指さす先には、私が持ってきた椿が入ったバケツがあった。もちろん、私の家の庭に植わっている椿から取ったひと枝だ。出がけに母が、新聞紙にくるんで持たせてくれたのだ。
「あのままじゃ邪魔になるでしょう? 小さく切りそろえてあげるから、花瓶に挿《さ》したら? そしたら飾れるし」
「んー……でも面倒見きれないかもよー?」
 聖はさも面倒なことはしたくないという顔で言う。しかし私は『そうは問屋が卸さない』とたたみかける。
「ウソおっしゃい。薔薇の館に飾ってた花たちの世話をこっそりしてたの、あなたでしょ?」
「……まさか! そんな面倒なこと、しないわよ」
「そぉ? じゃぁ私や江利子がうっかり水替えし忘れた時に限って、きっちり世話してあったのは、どなたのしわざだったのかしら?」
 私たちが高等部一年の時の話なので、祥子や令、ましてや祐巳ちゃんたちでは断じてない。
「……さー? こびとさんでも現れてたんじゃない? それとも、お姉さまたちの誰かか?」
 テキのしらばっくれも一筋縄ではいかない。
「とにかく。いいから花瓶を買いに行きましょう! 」
 聖の腕を強引に掴んで立ち上がる。聖もその勢いに押されてか、しぶしぶながら、しかしにやけた顔で立ち上がった。
「こういう大胆な蓉子も好きだなぁ」
 でへへ、と擬音が聞こえそうなくらいに、顔を崩して聖が笑う。本当に、高等部時代の聖のファンの子たちの“百年の恋”も吹き飛ぶのではないかと思えるくらい、美人が台無しだ。しかし私はこの顔がきらいではなく、むしろ……。
「……ばか」
「うふふふー……」
 左手で上着を掴み、右手で聖の手を引っ張って、玄関へと進む。聖は後ろに体重をかけて「行きたくないんだけどー」とポーズを取ってみせながらも、結局は引かれるままに付いてくる。
「そーいや、よーこから引越祝いをもらってなかったかも?」
 自分のコートを着ながら、そんなことを言い出す始末だ。
「はいはい。じゃ、それを引越祝いにしてあげるわよ」
 玄関の扉をあけ、ふたりで冬の空の下へと歩き出す。
 あの夜のように、吐く息は白かったけれど、聖があらめてつなぎなおしてくれた手はとても温かかった。
「へへへ……」
 超がつくほどの上機嫌で聖は笑い、それがさもあたりまえのように、繋いだ手を自分のポケットに入れた。いきなりのことだったので私は思わずつんのめって、聖の左腕にぶつかってしまった。
「ちょ……ちょっと! 急に、危ないでしょ?」
「ごめんごめーん」
 絶対に「ごめん」なんて思ってないわよね。
 でもまぁ、今日は許してあげよう。
 自主休講をした日の夜にたった一度電話をしたきりで、一昨夜まで私は聖にどうしても連絡することができなかった。そのあいだ、聖にはたっぷり心配をかけただろうし、我慢もさせてしまったに違いない。
 あの日からの出来事は、自分自身の弱さやずるさを、まざまざと見せつけられた日々だった。
 これから先、私たちの関係と私の両親との関係は、どう変化していくのか見えないけれど、それでも両親は私(あるいは私たち)に歩み寄ろうとしてくれている。
「蓉子?」
 聖がこちらを覗きこむようにして見ていた。私は聖の腕に自分の腕をさらに絡ませて、ぴったりと寄り添った。
「なんでもないわ。……さ、どんな花瓶がいいかしらね?」
「そーだなー……シンプルなマグカップみたいなのがいいかな。ちょっと間口が広いヤツ。そしたらあの部屋に、それだけ置いてあっても違和感ないし」
 ちょっとだけ見上げる聖の顔は、寒いせいか別の理由からか、頬と鼻の頭がほんのり赤くなっていた。
「なるほど。……じゃぁ、そんな感じのものにしましょう。小さな剣山があれば、なにか生けても安定するし」
「あんまり凝らなくていいってー」
 そんな会話をしながら私たちは歩く。いつもの歩幅、高等部のころから変わらない歩幅で、駅前へと歩いていく。
 ふたりの関係はあの頃からずいぶん変わったけれど、それだけはたぶんずっと変わらない。
 願わくば、私たちと私の両親。お互いにお互いを理解できる日が来ることを。
 そんなことを考えながら、私は、聖と駅前のショップを目指して歩いた。
        役目終え地を彩りし落椿《おちつばき》
                    春よ近しと告げる姿か

                              蓉子
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