へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

爪紅《ツマクレナイ》  フラグ付き作品・使用上の注意をよく読んでご利用下さい

爪紅《ツマクレナイ》 本文

——どうして。……こんなことになったんだろう…?
 朦朧《もうろう》とした意識の中、佐藤聖はどこかでぼんやりと思った。
 背中に直《じか》に触れているシーツの、やや湿った感触だけが、やたらと生々しく感じられる。
 目は、薄くではあるが開いているはずなのに、脳がうまく処理できないのか、なにもかもがぼやけて、自分がなにを見ていているのかもはっきりしない。
 はっきりしているのは、背中に当たるシーツと布ずれの音。そして自分の乱れた呼吸の音と——―。
——えっと……今日は確か…………。
 聖は記憶をたぐる。
 何度目の挑戦だろう。もう分からなくなってしまった。でもたぐってみる。
——ああ、そうだ。いつものように蓉子が私の部屋にやってきて——それから、いつものように……。
 一緒に食事をして、一緒に風呂に入り、ベッドインした。
 そこまでは何度もたぐった道だった。間違えようのない記憶。それから…それから……。
 その先を思い出そうとした時、首筋にねっとりとした生ぬるいものを感じた。同時にそれを囲むように、刷毛のようなものが肌をくすぐる。その感触の差に体が敏感に反応して、せっかくたぐった記憶をうっかり手放してしまいそうになる。
 さきほどから聖は、そういったことに阻まれて、思考を先に進めないでいた。
 首筋から広がる得もしれない感触に翻弄《ほんろう》されつつも、聖はなんとかがんばって、薄くしか開いていないまぶたを無理遣りにこじ開ける。そこには怒ったようなまなざしで聖に覆い被さっている、水野蓉子がいた。
——あー…そーだったぁ……。
  なんとなく、うっすらぼんやりと記憶がつながってきた。
 いつものように蓉子を抱いていた時、聖はうっかり蓉子の逆鱗に触れるようなことを言ったらしい。それがどんな言葉だったかは憶えていない。…というよりも、よくわかってない。まさかそんなことが蓉子の逆鱗に触れていたなんて、露とも思っていなかったから、さらにうっかり、蓉子を挑発するような言葉を重ねたようだった。
 前戯のときに言葉の応酬があるのはいつものことで、だから聖はいつものノリで喋っていたのだし、蓉子もまたそれに対していつものように言葉を返してきていた。……と、その瞬間まで聖は信じて疑わなかった。
——ひどいなぁ。
 何もこんな時に、ポーカーフェイスなんかしなくってもよさそうなものなのに。……いや、それだけ蓉子の怒りが大きかったってことか。
 聖はまるで他人事のように考える。……いや、そうしなければ、今は自分の思考を保つことがとても難しい。
 蓉子は聖の挑発に乗ったふりをして、いきなり逆襲を開始した。それはもう、「お手並み鮮やか!」と感嘆符付きで評したくなるほどの手際の良さで、聖が気が付いた時にはすでに手遅れだった。右手は今も、ベッドの枕辺を飾っている格子にタオルでもって囚われている。
——相手が蓉子なら、まぁいいや。
 聖はゆっくりとまぶたを閉じた。記憶がつながってしまえば、もうそれ以上はどうでもよかった。強弱つけて、波のように寄せては引く快楽に、聖はその身を任すことにした。
 相手が蓉子である。このことこそが重要なことで、それ以上もそれ以下も聖は望まない。
 以前はいろんな女の子を取っ替え引っ替え、その場かぎりのアバンチュールを楽しんだ時期もあるにはあったが、それは自分の臆病さと感情をもて余らせすぎた末の若気の至りというヤツで、収まるべきところに収まった今となっては、あの頃どうしてあんなことができたのだろうと、悩むこともしばしばなのだ。
 偽りの愛——それを「愛」というのもおこがましい気がする——では、人は真の安らぎを得られないのだと、蓉子と、栞とは違う意味の「恋人」としてつきあい始めてから、初めて聖が得た真理のひとつだった。
 蓉子の指先や手のひらが、聖の肢体を舐めていく。そのことで初めて聖は、自分の体の形を感覚的に自覚した。それは明確に、自分の体と外気が分離しているという事実を聖に伝えてくる。まるで自分が、火の塊にでもなったかのように、聖は感じていた。
 シーツに触れている背中がやたらと熱い。
 ときおり走る電撃に、体の末端の感覚が確実に奪われていく。
 そんな、いつもとは違う快楽が体中を支配する。タオルで格子に戒められた右手、そして蓉子自身にのしかかられた体は、思うように動かせず、それがさらに聖を未知の快楽へと押し流していく。蓉子の息づかいがやたらと間近に聞こえ、そして自分の声が、脳みそのどこか遠いところで聞こえる。
——ヘン、だ。
 声を発する器官の方が、自分の耳には近いはずなのに。…というか、これは本当に自分の声なのかな?
 脳の別の場所では、冷静にそんなことも考えている。しかし時間が経つにつれ、自分が仰向けになっているのか、うつ伏せになっているのか、はたまた横を向いているのか。その判断すらも聖にはできなくなっていった。
 いきなり蓉子の指が聖の左指にからんできた。そこで聖は初めて、自分の左手が空気中に存在するわずかな涼を求めて宙を掻いていたのだと気が付いた。
 蓉子の手のひらはうっすらと汗をかいている。冷え性ぎみなその手は、全身が火の玉になったように感じている聖には、この上もなくありがたい存在だった。
 聖は思わずそのひんやりと冷たい手を強く握りかえした。
 助けを求める手に、救いの手は、等しくのべられるのだろうか。
 リリアン女学園の高等部に在籍していた頃まで、聖はよくそんなことを自問自答しては、それを否定し続けていた。しかし今日はそうではなかった。
 救いの手は差しのべられた。
 強く握った相手の手から、あまり強くはないが確かに返答があり、そのすぐあとに唇を啄まれた。ふたたび薄く目を開けると、そこに蓉子の、薄く開かれた黒い瞳が見えた。
——蓉子……手はすごく冷たいのに、吐息は熱いんだ。
 そう思った瞬間、聖の世界が反転した。
 表現できないさまざまな感情が体の奥底からこみ上げてくる。嬉しいのか哀しいのかよくわからない。全身を血が駆けめぐり、体中のすべての部分が弾け、沸騰し、爆発する。あまりのことに声も出ない。津波とか台風とかモーセの十戒とかがいっぺんに襲いかかってきたような感覚に陥る。
 それらに翻弄されながら、それでも聖の脳裏にひらめくものがあった。
——これは……あの…………。
 聖は意識を手放した。
 聖の体が大きく数度、がくがくと跳ねる。大型の猫科動物が発するような声をのどから絞り出しながら、極限まで弓なりに背を反らせたあと、突然シーツの上にくずおれた。
「…………聖……?」
 聖の中に入っていた自分の指を引き抜きながら、蓉子は上がった息を整える。抱く方がこんなに体力を使うなんて、実際に経験するまで思ってもみなかった。聖がいつも息を荒げているわけが、わかったような気がした。
 手が外気に触れてひんやりとする。それと同時に、この瞬間特有の、女の匂いがつんと鼻をくすぐった。
「聖……」
 聖はさっきからぐったりと動かない。心なしか、白磁の顔がいつも以上に透けて見える。蓉子は聖の顔に、自分の顔を近づけた。
 ——息が……。
「聖! ……起きなさい、聖!」
 蓉子はとっさに聖の右手をベッドの格子に縫い止めているタオルをほどき、濡れている手をそれで拭った。それから聖の体を強く揺さぶり、頬を叩く。
 とにかく覚醒させなければ。
 これでダメなら人工呼吸を、と考える。つい先日自動車学校で習ったばかりで、まさかもうそれを使う事態に遭遇するとは。それも自分が原因で。
 そんなことが蓉子の脳裏をよぎっていき、うっかり自分を呪いそうになったとき、聖の胸が大きく上下し「ひゅっ」と笛が詰まった何かを吐き出した時のような甲高い音をたて、それから自力で呼吸を始めた。
 よかった。
 呼吸が止まっていたのはたぶん1分も満たない時間だったのだろうが、蓉子にはもっと長い時間だったように思われた。安心に気が抜けてため息をつくと、うっすらと目を開けた聖が、ひどくしゃがれた声で言った。
「蓉……。あの、ね……痛いから……」
 それで蓉子は、聖の頬をまだ叩き続けていたことに気がついた。
 聖は「にょへら」とだらしなく笑った。「ひどい声だ」と唇だけが動いた。どうやら自分のひどく掠《かす》れてしまった声が可笑《おか》しいらしい。そして自分の頬を両手で覆った。その動作で、自分の右手が自由になっていることに気が付いたのか、聖は重そうにまぶたを少し引き上げると、首を横に倒し、戒められていた方の手首を、自分の目線に移動させようとしていた。その動作はひどく緩慢だった。
 蓉子はそんな聖の動きを見ながら、呼吸が止まっていたことによる一時的な動作障害が起こっているのだろうかと、心配になる。
 こんな時、令だったら的確な対処方法を知っているのではないだろうか……と、蓉子は悪友・鳥居江利子の妹《スール》のことを思い浮かべた。支倉令は現在、体育科大学で運動科学などを専攻している。
 しかしどうしてこのような事態が発生するかの説明を、一つ下の、まっすぐな気質の後輩にすることは、たぶん自分にはできないだろう。……というより、一体どんな顔で令に言えばよいのか。
 江利子だったら平気で——というよりも面白そうに——口にしそうな気がする。いらぬ枝葉《えだは》を伸ばしながらニコヤカに話す江利子と、それにオロオロと対応する令の様子が、容易に想像できてしまった。
 聖は手首の状態を確認し、ちょっと眉をひそめている。
 彼女の右の手首には、戒めていたタオルがつけたであろう擦過痕《さっかこん》がついていた。あまり派手にではないが、しかし見る人によっては確実に気づかれてしまうだろう。聖の肌は、蓉子のそれよりもずっと白い。そこに浮かんだ、やや鬱血《うっけつ》したような、すり切れたような、なにかの跡。
「聖。……大丈夫?」
 蓉子は恐る恐る訊いた。訊きながら、なんて間抜けた質問をしたのだろうと、ほぞをかんだ。
 そんな蓉子に、聖は視線を投げて小さくしかめ面をした。唇がかすかに動く。声が出ない。よく見ると、聖の唇はカサカサに乾ききってしまっていた。
 これでは出るべき声も出ないだろう。もしかしてやりすぎてしまっただろうか?
 蓉子は聖に対してものすごく申し訳ない気分になった。そして言い訳めいた弁解が口をついて出た。
「貴女、ものすごく暴れるから。……ほんの少しの時間だけど、息も……止まっていたのよ?」
 言いたいのはこんなことじゃない。どうしてもっと素直に謝ることができないのだろう。自分の声を聞きながら、蓉子は自己嫌悪に陥った。
 聖の、出なくなっている声と乾ききった唇が自分を責めているような気がして、蓉子はサイドテーブルの上に乗せていた水のペットボトルに手を伸ばした。手早く蓋を取って、その中身を口に含む。水はぬるくなってしまっていたけど、それでもないよりはマシだろう。
 そして口の中に水を含んだまま、聖に顔を近づけた。
 それはいつも聖が、自分にしてくれる行動のトレース。欲する者と与える者がいつもと逆転してはいるけれど、だからこそ聖は、蓉子の行動を正しく理解したのだろう。近づいてくるものを待ちわびるように、薄く口を開いてくれた。
 蓉子はそこにそっと自分のそれを重ね、それからこぼれないように細心の注意を払って、聖の口に水を流し込んだ。
 器用に水を受け取る聖の喉から、ごくり、ごくり……と大きな音が聞こえてくる。蓉子が聖の顔をちらりと盗み見ると、心底満足した時の光りを宿した聖と、一瞬目が合った。蓉子は心の底から安心して、ふっと自分の肩の力が抜けたのを自覚した。
 聖の、鼻で笑う音がかすかに聞こえる。もしかしたら心の中を読まれたかもしれないと蓉子は思ったが、でもそんなことは、もうどうでもよかった。
 聖を腹上死させたなんてことになったら、目も当てられない。江利子になんて笑われるか、わかったものじゃないわ。
 心底ホッとしたからか、蓉子はそんなことを考えていた。
 口の中の水は、すべて聖が飲み干した。唇を離すとき、蓉子は舌先で聖の唇をその形通りになぞる。まだかさついていたけど、すでに動きづらいということはないようだった。形のいい唇が、にやり、と笑うのが見えた。
 もう大丈夫のようだ。
 
「ごちそうさま、蓉子」
「…………ばか……」
 前言撤回。
 完璧に大丈夫。
 憎たらしい部分まで戻ってきている。もうちょっと萎《しお》れててもいいじゃない。そんなことをつい思う。
 心配している自分とか照れている自分とかを隠したくて、蓉子は乱暴に掛布を引き上げ、聖の頭からすっぽりとそれをかぶせた。もごもごと白い塊が蓉子の目の前で動いている。
「なに? 照れてんのー?」
 シーツの中でひとしきりもがいていた中身が、やっとのことで出口を見つけて、顔を外に出した。いたずらっ子のような笑みをこちらに向けてくる。
「知らないわよ」
 部屋は現在の時間相応の明るさでしかなかったが、そんな聖がまぶしくて、蓉子はシーツと掛布の間に潜り込みながら聖とは逆の方を向いた。
「そんなに邪険にしないでよー」
 聖は、蓉子を背中からゆっくりと抱きすくめてきた。抱きすくめるというよりは、もたれかかっていると言う方が正しいように、蓉子には感じられた。背中に感じる聖の体重がやけに重く、体温もいつも以上に高い。自分の髪を通して聞こえる声は、やや熱を帯びているような響きだから、まだ気だるいのかもしれない。実際、いつもどれだけ汗をかいたとしてもすぐにさらりと乾いてしまう聖なのだが、今夜はまだじっとりとした湿り気を帯びていた。
 蓉子は「しょうがない人ね」と心の中で呟き、聖のしたいようにさせることにした。
 しばらくのあいだ、蓉子は聖の規則正しい呼吸音を聞いていた。ときおりそれを整えるような深いため息が聞こえる。そのたびに、はっとなる。それで自分が軽くまどろんでいたことを自覚する。
 ずいぶん無理をさせてしまったに違いない。強く抵抗されないよう早々に彼女の右手をベッドの格子に縫い止めたのは、自分のためにはたぶん正解だったけれど、自由に動けなった分、聖には負担だったのではないだろうか。しかし右手以外は自由だったのだから、その気になればいつでも逃げたり抵抗することは可能だったはずだ。だが聖はそれをしなかった。そして蓉子を受け入れた。
……たぶん、そういうことなのだと思う。
 聖から投げかけられた言葉についカッとして、蓉子は初めて聖を抱いたのだけれど、それはもしかしたら、蓉子を巧妙に煽るために仕組んだ、聖の策略だったのかもしれない。
 疑いだせばキリがない。
 蓉子が背を向けるまで見えていた聖の表情は、決して悪くないどころか満足そのものに見えたから、そこに策略があったにせよなかったにせよ、聖的には結果はおおむねオーライなのだろう。
——今まで見たこともない聖も見られたことだし。
 自分もこのあたりでおおむね満足、というところで手を打つのが上策だろう、と蓉子が自分の中に結論づけたその時、また背後から大きなため息が聞こえた。
 聖の吐く温かな息が首筋にくすぐったくて、蓉子はちょっと肩をすくめた。
「……起きてるの?」
 聖の声が聞こえる。
 聖のやや湿った手のひらが、何かを求めて蓉子の上をさまよっている。
 いつものように、下になった方の乳房をすくい上げられる前に、蓉子はシーツの中、聖の方を向く。
「起きてたわよ? 貴女も眠れなかったのでしょう?」
 聖の体の中にすっぽり収まりながら、蓉子は自分の顔のやや上にある聖の頬に、そっと指を這わせた。
「……うん。ちょっとウトウトはしてるんだけど、なんとなく眠れない感じ」
 見上げた聖の目は、まだ少し潤んでいる。目を合わせるのが恥ずかしいのだろうか、こちらを一度も見ようせず、だからといってどこを見ているでもなく、遠い目をしている。それは聖が、表現すべき言葉を探して、思考の中をさまよっている時に見せる表情だった。だから、蓉子は待つことにした。紡《つむ》ぐべき言葉が見つかれば、彼女は必ず帰ってくるから。
 聖は、程なくして蓉子のところに戻ってきた。
 果たして、いつものチェシャ猫のような表情と態度に戻ってしまっていた。さて、どんなことを言い出すのやら。蓉子は何が起こっても何を言い出してもいいように、心の準備を整える。さながら防災袋の中身をチェックするような、そんな感覚で。
「備えあれば憂いなし」だ。
 聖は、自分の身のうちに収まっている蓉子をその肩越しに、手のひらを合わせVの字に組んだ腕ですっぽりと抱きかかえると、自分の顎を蓉子の頭に軽く乗せた。おかげで蓉子は完全に身動きひとつできなくなってしまった。
 どうしても表情《カオ》を見られたくないのね、と蓉子は、今はそれしか見えない聖の白い胸元に頭を預けて、思う。よく聖が蓉子にしているように、体のどこかに悪戯でもしてやろうかしら。…と、そんなことが頭をよぎったが、しかしそれを実行できないのが、水野蓉子の良さであり弱点だった。だって佐藤聖は、それを見越してこの体勢になっているのだから。江利子あたりに甘いと突っ込まれそうだが、まぁ仕方ない。確かに自分は甘いのだ、聖に対しては。
「ほら、ぱちん、ってはじける花があるじゃない」
 いつもの聖の声が、頭上から降ってくる。
「はじける花……?」
 蓉子はそんな花があったろうかと記憶の中を探る。
「夏頃にさ。赤っていうか、濃いめのピンクっていうか、ひらひらってした花が咲いて、秋頃なったら、ぱちん、ってはじける……」
「……ああ、ホウセンカ。別名をツマクレナイとも言うわね」
 それならば、はじけるのは種《たね》の方だ。だが、そんな認識しかないのが、聖「らしい」と言えば、らしいところ。蓉子は密かにため息をついた。
「……え? ……あれがホウセンカっていうの?」
 きょとんとした声が聞こえて、聖が自分を覗き込んでくる気配がした。
「そうよ。実をつまむと、ぱちんと弾けて、種が飛んでいってしまうあれでしょう?」
「うん。そう。……そっか、あれがホウセンカって言うんだ」
 聖は勝手に納得している。それがなんだか釈然としなくて、蓉子は「だから? それがなに?」と理由を問う。聖はあっさりと白状した。
 それは先日、聖がアルバイトでやってる、科学雑誌に掲載する論文の下翻訳に「ホウセンカ」の文字があっただけ、ということだった。
 知らない単語だったので辞書で調べたら「ホウセンカ」だと書いてあったのだが、こともあろうか聖は、その「ホウセンカ」がなにものであるかまでは、ピンとこなかったらしい。論文の内容から「それが植物名を指しているくらいはわかっていたけど」……と、聖は、あまり意味も益もない自己フォローをした。
「ホウセンカって植物があるんだー、くらいにしか思わなくてさぁ」
 そう言って苦笑する聖の気配を感じながら、蓉子はあきれ果てていた。科学論文ならば、その語句が何を指しているかまで解らずとも翻訳できてしまうかもしれないが、もしこれが文学作品だった場合はどうする気だったのか。まぁ常々、下翻訳のアルバイトについては「面白そうだからやっているだけで、プロになるつもりはない」と言っているから、その程度の認識でもやっていけるのだろうけれども。
 そんな蓉子の呆れをよそに、聖は言葉を続けた。
「その、ホウセンカの種がはじけるあの感覚? ……あれを、思いだしたんだよね」
 なんとなく。……と言い添える。蓉子は、聖が言わんとしていることが量《はか》れなくて、彼女の顔を見上げた。相変わらずチェシャ猫のような笑みを浮かべていたが、顎をやや上げ気味にしてあさっての方を向き、こちらを見ようともしない。
 そして、ほんのわずかに視線が泳いでいた。
 それを目ざとく見つけた瞬間、蓉子は、聖が言おうとしていることを、これまた敏感に察知してしまった。
「馬鹿ね……」
 今度は蓉子の方が目をそらす番だった。
「うん。……ありがとう」
 聖の腕が、蓉子をぎゅっと抱きすくめる。
「ずっと、私が蓉子にあげられる『モノ』って、ないんだと思ってたから」
 まるで今日の夕飯のメニューの話題をするような口調で、聖は言った。でもそれは、聖の精一杯の照れかくしだと知っている。蓉子は上になっている方の腕を、そっと聖の背中に回し、そしてあやすように撫でた。
 たぶん自覚なく小刻みに震えている聖が、このまま消えてしまうように思えたから。
 どれくらいの時間、ふたりでそうしていただろう。
「そーいえばさ」
 体を離しながら聖は言った。蓉子は聖の顔が楽に見えるよう間合いを取る。
「ホウセンカって、英名をRose balsamって言うんだよね」
 知ってた? ……と、ウインクひとつ。そして、いたずらっ子の表情で笑う。
「あら? “Rose”を冠しているの? バラ科の植物ではないのに?」
 蓉子は面白そうに声を上げた。
「なるほど、だからね? 貴女が名前から実物を想像できなかったのは」
 たぶんそれは図星だったのだろう。聖は形のいい眉を中央に寄せて、口を突き出すようにし、おおげさにへの字に曲げた。これも聖の照れかくしのひとつだ。だから、「それは知らなかったけれど」と前置きして、蓉子は話を続けた。
「Impatiens balsamina……」
「え?」
「ホウセンカの学名よ。ツリフネソウ科の一年草ね」
 やはり、聖はそのあたりの知識が薄い。蓉子はこれから語ろうとしていることに、わくわくしているのを自覚していた。
「……impatiens はね…………ふふ……」
「なによ?」
 聖は眉をハの字に上げた。ちょっと間抜けてるその顔が、蓉子はたまらなく好きだった。
「ラテン語でね。『我慢できない』って意味なのよ」
 にやり。
「……!……。……ばっっ…………っか……」
 聖の肌が、一瞬で真っ赤に染まり、そして声も態度も小さくなってしまった。
 蓉子は思わず吹き出して笑い転げる。いつもやられているから、今日はお返しだ。
 ああ、なんて楽しい。
 なるほど蓉子がいくら怒った素振りを見せたり、時には鉄拳制裁をしても、聖が性懲りもなく止《や》めないはずだ。
 恥ずかしさが極限に達したのか、ずぶずぶと聖は布団の中に沈んでいく。そして目から上だけ残した位置で止まると、蓉子を恨めしそうな目で睨んでいた。
 そんな聖がかわいくてたまらなくて、蓉子は思わず彼女の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。これもいつもと立場が逆転している。
 聖の勇気と自分のくだらない(今となっては、という意味だ。さっきは真剣だった)怒りは、間違いなく自分たちの関係を、また新鮮で深いものに進めたのだと、蓉子は思う。
 願わくば、聖も、私と同じように感じていてくれていると、いいのだけど。
……なんということだ。蓉子にこっち方面で一本取られるなんて。
 心底楽しそうに笑う蓉子を見ながら、聖はちょっとだけやりきれない思いをもてあましていた。
 ああ、でも……。
 落ち着いたら、しっかり思い出した。蓉子が激怒した理由。
 結果は。まぁ、オーライだったけど。
 いつかはこんな日が来るかもしれない。でも来ないかもしれない。そんなことを、ずっと身のうちに抱えていたのも事実だったから、機会としては丁度よかったのかもしれない。
……いや、そう自分が無意識に判断したのだ。野生のカンてやつ?
 だから、あそこで普通はやらない挑発を、失言という形を借りてやってしまったワケだ。
 そして結果はこうなった……と。
 聖は今夜の出来事を分析しつつ、目の前で笑い転げる蓉子を、幸せな気持ちで眺めていた。
 ぐしゃぐしゃにかき回された髪をかき上げ、後ろになでつける。細くて猫っ毛でショートカットのそれは、サラリと流れて、元の位置に戻ったようだ。
 たぶん……。と、聖は考える。
 今夜のことは、自分たちの関係をわずかに変えるきっかけになるかもしれない。もちろん、積極的に蓉子に抱かれようとは、今後もあまり思わないだろうけど(経験して思った。抱く方が性に合ってる)、それでも、お互いに未経験のまま未来に時間を重ねていくのは、なんだかもったいない。経験できることはできるだけ経験して、その上で自分たちのあり方を模索していけばいいのだから。
 しっかしまぁ……。
 まさか、いきなり緊縛プレイに突入するとは思わなかった。そして、あんなに無茶苦茶にされるとも。
 初めてだったんだろうから、余裕がないのは承知の上だったけど、自分の最初の時でも(その相手が誰だったかは、ナイショだ)、あそこまで乱暴にやった覚えは……。
 今後、蓉子をこの手のネタで怒らせるのは、止《よ》しにしよう。と、覚醒してからずっと、だるくて重くて、他人のものようにままならない腰をもてあましながら、聖は心に強く誓った。
「そーいえば」
 程なくして、聖がごそごそと布団から肩をだした。蓉子の笑いはすでに収まっていた。
「ホウセンカの別名。……なんて言ってた?」
 おや、めずらしい。聖がそんなことに気を止めるなんて。蓉子は、夜気に上半身をさらしたまま、思った。
 共通の友である鳥井江利子もそんな部分はあるが、佐藤聖はさらに輪をかけて、何をもって興味がわくのかの基準が、よくわからない。いきなり興味を示し、そしてしつこい。知り合ってそろそろ10年の声を聞こうとしているけれども、ついでに言えば、現在の関係になった今でも、彼女の思考パターンに取り残されることが、しばしば起こるのだ。
「ツマクレナイ……爪が紅《あか》いと書くわね」
 蓉子は掛布に覆われた立て膝に、頬杖をついた姿勢で座っている。その姿勢のまま、右の人差し指で宙《ちゅう》に『爪紅』と文字を書いた。書きながら、トンボを捕まえようとして指をくるくる回す、そんな光景を思い浮かべていた。
「昔、女性がこの花で爪を染めていたらしいわ。だから…」
「……爪紅《つまべに》って書くのか」
「そう。そのままツマベニと言う地方もあるみたいね。…あ、沖縄のほうでは『てぃんさぐ』と言うわ」
「てぃんさぐ? ……ああ、なるほど」
 何を納得したのか、聖は沖縄民謡の『てぃんさぐぬ花』を、鼻歌でワンフレーズだけ歌った。ほんのちょっとだけ、音程がずれていた。
「じゃぁ、今日の私は、蓉子にとってのツマクレナイだったってことかな?」
 聖が口の片端を上げてにやりと笑う。今度は聖からの「にやり」の応酬。
……この笑い方は、まさか……。
 蓉子は嫌な予感がした。そして蓉子の「まさか」はたいがい当たる。
 聖が布団の中から……というより、枕の下あたりから、なにやら取り出して蓉子に差し出す。
 それは間違いなく、先ほどまで聖の右手をベッドに戒めていたタオル。
 そこにはうっすら紅色の染みが、ほんのわずかではあるが、できていた。
「……!!…………」
 蓉子は驚愕のあまり、声が出なかった。いや、出そうと試みたが、残念ながらパクパクと上下の唇が、距離を縮めたり広げたりしているだけで、音が形成されなかった。視線の先にいる聖は、してやったりという勝ち誇った顔で、ニヤニヤニヤニヤ笑っている。
 ああ、そうだった。今の聖は、こんな時こそ笑える人間なのだ。
 これが佐藤聖という人間の強さ。したたかさ。
 だからこそ、彼女を愛して止まないのだ。
 蓉子はがっつんと脳天を鈍器で殴られたような気分になった。でもそれは決して悪い気分というわけではなかったけれど。
「…………ごめんなさい」
 今度は蓉子が、ずぶずぶと布団に沈む番だった。それに対して、聖は真夏の太陽のような笑みを投げかけてきた。
「どういたしまして。……このお返しは今度ね」
 あの聖がこんなことを言うなんて。
 平気な顔をしているが、たぶん身動きするのが相当に辛いのだろう。しかし聖はそんな素振りを微塵も見せず、布団の中に沈んできた蓉子の肩に、丁寧に掛布をかけてくれる。そして蓉子の体にそっと腕を回し、今度こそ本格的に眠る体勢になった。すでに聖の体は、いつものようにさらりと乾いていた。
 冷えた蓉子の上半身に、聖の高めの体温が心地いい。たぶん聖も同じように感じていることだろう。
 ふたりはどちらからともなく口づけをかわす。
 啄むような軽いキスを繰り返しながら、蓉子は、来年の夏はベランダでホウセンカを花咲かせるのもいいかもしれない、と考えていた。
 秋になったら、聖はきっと喜んで種を飛ばして遊ぶだろう。
 それを見るのも、また一興だ、と。
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