オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

あの桜並木の下で 小品集 時間外

春花

春花 本文

 貴ちゃんが好き。
 貴ちゃんの匂いが好き。
 お日さまと絵の具と紙と、木とボンドの匂いがする。
 ときどき鉄の匂いもする。
 墨の匂いがする。
 私が十歳になった頃くらいから、貴子叔母はいつも眠っているという印象しかなかった。起きているところをあまり見たことがなかったからだ。
 学校から戻って叔母の家、つまりは“あずまや”に行くと、半分背を立てた折りたたみのベッドの上で、ひなたぼっこをしながら静かに眠っている叔母いた。
 そろりと音を立てずに近づくと、叔母はかならず目をうっすらと開いてにこりと笑った。最初に目だけが笑って、それから口が微かに笑う。
「おかえり、ハル」と低くて小さな声で言ってくれた。
 当時の私は貴子叔母の眠ってる顔を間近でじーっと見たいと思っていた。子供なりに精一杯気をつかって、音を立てないように立てないように近づくのに、叔母は必ず目を覚ますのだ。
 でも、それで良いのだということを、私はすでに知っていた。
 たった一度。
 たった一度だけ、叔母が目を覚まさなかった日があった。
 私が8歳くらいの頃だったろうか。
 学校から戻って「貴ちゃん」と声をかけても、空が赤くなっても、さらに暗くなっても目が覚めなかった。ただひたすらに静かに眠っているように見えた。
 学校の部活動が終わって家に帰ってきていた兄たちが様子を見に来て、あわてて表の店に父を呼びに行った。
 友兄(トモにい)に呼ばれた父が飛びこんできて、妹である叔母の様子を見た。それからすぐに携帯電話でどこかに連絡をした。
 ほどなくして赤い回転灯をつけた救急車が音も立てずに来たかと思うと、白衣を着た大きな男の人が3人がかりで、あっという間に叔母を連れて行った。私は貴兄(タカにい)に抱きかかえられたまま呆然とそれを見送った。何が起こったのか解らなかった。
 その日、いつもは夜遅くにしか帰ってこない母が、救急車が去って1時間もしないうちに戻ってきた。父と二言三言話をして、それからみんなで一緒に叔母が連れて行かれたところ――つまりは病院――に行った。
 大きな建物が青白く、そして冷たく、私と私の世界のすべてを飲み込むために覆い被さろうとしているようで、とても恐かった。
 私たち……というよりは、父と母を待っていた佐和子先生が、恐かった。
 たぶんその時、私は泣いて、泣きじゃくって、それっきり病院へ行こうとしなかった。誰もそれを、咎めることはしなかった。
 それから一週間くらいあとに、貴子叔母は家に戻ってきた。東郷のおじさんに抱きかかえられて、母が付き添って戻ってきた。
「ハル、ただいま」
 叔母は儚げに目だけで笑って、またいつものベッドの上に戻った。
 それ以来、私は、自分があずまやに上がりこんだ気配を感じた貴子叔母が、目を覚ますのは良いことなのだ、と思うようになった。
 私が物心ついて憶えているかぎり古い記憶の頃から、貴子叔母のアトリエ兼自室である、家人たちからは“あずまや”と呼ばれていた離れの小さな家は、いわゆる「不夜城」だった。
 夜中にトイレに行きたくなって廊下を歩いていたら、居間から“あずまや”の明かりが見えた。それを見たらホッとした。
 とても古い我が家の夜の廊下は、柱や壁が自ら吸い取った闇をふたたびゆるゆると吐き出したように暗く、この世のものではないものが出てきそうな感じが常にしていて、子供心にとても恐かった。けれど、“あずまや”明かりが見えるとそんな恐怖はどこかへ飛んでいく。
「貴ちゃんがすぐそばにいるから恐くない」
 私は当時、真剣にそう思っていた。
 そんな恐怖が薄らぐ年頃になった頃、やはり夜中にトイレから部屋に帰る途中、母屋と“あずまや”のあいだに架かる、渡り土間を戻ってきた母と鉢合わせになることが何度もあった。
 この渡り土間は、私が小学校に上がる頃にはなかったもので、貴子叔母の病状が深刻になり始めたころ建て増された部分だ。本来は廊下にしたかったらしいが、貴子叔母が嫌がったために屋根付きの土間になったらしい。
「貴ちゃんね、夜中じゅう起きているのよ。」
 あるとき母から聞いた。
「だから昼に起きておけないのよね」と、台所のテーブルに頬杖をつき、ため息まじりにつぶやいた母の姿をよく憶えている。
 このころの貴子叔母は、調子が良いと夜中じゅう起きていて、朝ご飯はみんなと食べ、私たちを送り出したら“あずまや”に戻って寝ていたらしいが、私はよくは知らない。私がよく憶えているのは、亡くなる一年くらい前からで、起きれる時に起きていて絵を描き、眠くなると眠るというリズムで日々を過ごしている叔母の姿だ。
 私といえば、毎朝、目が覚めて顔を洗い着替えをすませると、“あずまや”へ行き、「貴ちゃん、朝ご飯ですよー」と声をかけるのを日課にしていた。起きていれば一緒に朝ご飯を食べてくれるし、起きていても機嫌が悪かったり、眠りたかったり、食べたくなかったりすると、「今日はいいよ」と素っ気ない声で言い、それから何かに気が付いたような顔を一瞬だけして、わずかに口の端が上げて微笑む。まれに私の頭を撫でてくれる。
 私は「うん」と小さくうなづいて母屋に戻り、もそもそと朝ご飯を食べる。叔母のいない朝ご飯は、あまり美味しくなかった。
 貴子叔母は最晩年、ずーっと同じ絵を描いていた。私が憶えているかぎり、二年くらい同じ絵を描いていた。
 どんな絵なのかは、当時誰も知らなかった。もちろん母ですらも知らなかった。
 今、その絵は柳原の本宅に飾られている。私が高校生になった頃、貴子叔母が亡くなったために三分割されたままだった絵は、“あずまや”を半解体して取り出され、移動された。絵が傷むのを防ぐためにである。
 移動された当初は玄関ホールに入ってすぐのところに簡単に組まれて設置されたが、ほどなくして三階のプライベートゾーン廊下の最奥の壁に完璧な状態に組み、額装までされて掛け替えられた。もともとそこには別の絵が何点か掛けられていたのだが、母がそれらとその一角にあった調度品などをすべて片付けて、なにもないようにしてから、自らの手で掛け替えた。
 移動から仮設置、そして組み上げ・額装・掛け替えまで、迅速にそして秘密裏に行われた。
 だから、その絵を知る人はほとんどいない。
 これが正真正銘のIwasita Takakoの遺作で、その絵と貴子叔母本人が亡くなっているのを最初に見つけたのは、何を隠そう、この私だ。
 ちなみに、世間的に言われているIwashita Takakoの遺作は、今もメルボルンに在住している日本人芸術家の保科香穂里氏が個人的に保有し、それを買い取ろうと三島興産社長の三島晃二氏がいろいろ画策しているようだが、未だもって成功したという話はどちらからも聞かない。
 小さな頃の私に視点を戻そう。
 その頃思っていたことを話そう。
 貴ちゃんが好き。
 なぜ? って訊かれてもわからない。好き。それだけ。
 貴ちゃんの機嫌がとてもいいときは、私は貴ちゃんと一緒にお昼寝する。
 貴ちゃんの髪から、お日さまと絵の具の匂いがする。
 私を支えてくれる手は、いつもさらりと渇いていて、ときどき枯れ草の匂いがする。
 墨の匂いがすると思ったら、爪のあいだや生え際に、洗い落とせなかったそれが頑張っているのを見つける。お昼寝が終わったら、私がきれいに洗ってあげる。
 洗い終わった手を拭いてあげていると、貴ちゃんは目を細めてだまって笑っている。その顔を見るのが、とても好き。
 できることなら、貴ちゃんとずっと一緒にいたい。
 私はずっと思っている。
 しかし、それは決して叶わない望みだということを、すでに私は知っている。
 いつまで一緒にいれるのかは分からないけれど、貴ちゃんが「もういらない」と言うまで、貴ちゃんのそばを離れない。
 そしてその時は無慈悲にも来た。
 貴子叔母は独りで逝ってしまった。誰にも見取られず。もちろん挨拶すらせずに。
 遺言すらもなく。
 彼女が最期に何を思っていたのか、誰を想っていたのか。
 それすらわからない。
 十一月の終わり、寒い寒い朝だった。
 私は今も、母屋から“あずまや”へ行く渡り土間で吐いた息の白さが、忘れられない。
 天井板すら外して描かれた『家族の肖像』を、始めて見たときの衝撃が、忘れられない。
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