あの桜並木の下で 小品集 時間外

イワシタ

○柳原家本宅内にある、あずまやの縁側。
   春花と貴秋が、碁盤を挟んで対局している。
   春花40代、貴秋50代。
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……Iwasita Takako……。
……ん?
ああ……いえ。
長考しているから、悩んでいるのかと思ったら、
貴子さんのことを考えていたとはね。
……ごめんなさい。
……いや…いいさ。
貴ちゃんは……なぜ自分のサインを、Iwasitaから書いてたんだろうって……ふと、思っちゃって。
……ふむ……確かに。
(ぱちり、と白石を盤に置き)以前、お母さんから聞いたんだけど、
貴ちゃん、何カ国語か喋れたのに、読み書きはほとんどできなかったんですって。
英語はともかく。
その話、僕も聞いたことがあるね。英語はいつもギリギリの成績だったらしい。
書くのが苦手……というより、スペル間違いで減点されまくるからだと。
でも、母さんの出張に、秘書兼通訳で連れて行ってたという話もあるよ。
お母さん、苦労人だから。
だね。
母さんが柳原を継いだ当初は、会社の中は敵だらけだったはずだよ。
一部の人たちはともかく。
(ぱちり、と黒石を盤に置く)
……兄さんには感謝しているわ。
……どういたしまして。
あまりに殊勝なことを言うと、明日あたりなにかしでかしてくれるんじゃないかと、冷や冷やするけどもね。
……ちょっと……。
冗談だよ。
……冗談に聞こえなかったわよ。
ふふふ……まぁまぁ。
……さ、次の手をどうぞ?
(石を置く)いくら読み書きが得意じゃないとはいっても、名前の書き方くらいは知ってたと思うのよね。
(石を置く)そりゃぁね。
(石を置く)……で、あるならば……
……ん?
こだわり……なのかしら……と思ったのよ。
……ほう?(石を置く)
岩下でさえも……シのhがあったりなかったり。
そのあたりは、どうでもいい人だったからね。
うん……(石を置く)……イワシタ……と、前に書くことが重要だったんじゃないかしら。
……なぜ?
お母さんが、岩下にこだわっているように。
……ああ、なるほど。
貴ちゃんも、自分が岩下であることだけは、こだわっていたんじゃないかしら。
大いにあり得るね(石を置く)
そう考えると、不思議。
……ん?
私は、別にどっちでもいいのよね。
ん?
ハルキが柳原を継いだあと、岩下に戻ろうって気はないのよ(石を置く)
厳密に言えば、戻ってもいいし、戻らなくてもいい。
……貴子さんと同じ姓じゃなくても?
うん。こだわらない。
それもアリかなって、思ってるの。昔から。
……。
そろそろ、柳原の方が長くなるしね。
……(石を置く)
そういえば……母さんはもう岩下になる気はないんだろうか?
あるんじゃないかしら?
…でも、まだまだ私、信用がないのよ(石を置く)
そういうワケじゃないだろう。
そろそろ……とは思っているはずだよ。
うーん……。
お前が50になる時に……と考えているのかもしれないね。
うーん……。
あるいは……(石を置く)
あるいは?(石を置く)
きっかけが掴めないのかもしれないね。
……なるほど。
お前が言ったように、母さんが岩下にこだわりをまだ持っているのに
それをしないということは、きっかけを見失っているんだと思う。
きっかけとかどうでもいいから、とっとと3回目の再婚をすればいのよ。
ほぼ引退しているんだし。
(石を置く)そうだね。
名実ともに、会長だからね(苦笑する)
そもそもウチは名称がややこしいのよ。
元の状態に戻っただけなんだがね。
もともと、総裁と会長は別職だったわけで。会長はあくまでも名誉職でね。
僕らのお祖父さんが先代会長で先々代総裁。伯父さんが先代総裁だね。
……知ってます(石を置く)
母さんが総裁になった時に、対外的な名称があったほうがいいということで、内部的には総裁、対外的には会長と、呼ぶようになったと、母さんから聞いたよ。
だからといって、CEOって名称は嫌いなのよねぇ。
お前がね(石を置く)
なんでもかんでも横文字やアルファベット三文字は、芸がないわ。
確かにその通り。
日本人なんですもの。
……なるほど。
なによ?
……いや、そういうところを貴子さんから受け継いでるんだなと。
(石を置きつつ)え?
貴子さんがIwashitaを先に書くのは、岩下へのこだわりもあったんだろうけど、
自分が日本人であるというこだわりもあったんじゃないかと思ってね。
なるほど……そう…かもしれないわね。
(石を置く)
……でもね、最近よく考えるのよ。
貴ちゃん、お父さんがお母さんと知り合ってなかったり結婚してなかったりしたら、
果たしてずーっと日本(この国)にいたろうか……って。
うーん……。
カホリ小母さんにくっついてメルボルンに……は
それはちょっと考えられないな。
(石を置く)……そうね。
可能性として一瞬考えたけど、何かがすぐ否定したわ。
外国のどこかに住み着きそうな、そんなのも、僕は思いつかないな。
放浪はしているかもしれないけどね。
……そう考えたら……。
どこにも行きそうにないわねぇ……どこかで野たれ死んでるというのもらしくないかも。
私の想像力が貧相なのかもしれないけど……(部屋を見渡して)この家以外に、
貴ちゃんが落ち着きそうな場所がないのよ。
(同じく部屋を見渡して)……うん。
(石を置く)
……柳原の本宅に、お母さんが染みついてないように……これも、
私の想像力が足りないせいかもしれないけど。
でも、岩下の家とか、愛媛のお曾祖母(ばあ)ちゃん家(ち)みたいに、
お母さんがいることがしっくりこないのよね。
本宅にいる母さんしか知らない人たちは、たぶんそんなことは思ってないと思うよ?
……で、しょうね(石を置く)
『岩下秋子(いわしたしゅうこ)』よりも『柳原秋子(やなぎはらしゅうこ)』のほうが、はるかにしっくりくる人だもの。
……それでも……
お母さんは岩下にこだわるんだわ。
お父さんと結婚したからかしら、それとも貴ちゃんがいたからかしら?
……さて、どちらだろうね。
本人も分かってないとは、思うけれどね。
(石を置く)
ええ……。
岩下、Iwashita、Iwasita……書きようはどうでもいいんでしょうけど、イワシタにこだわってるのよね、あの二人は……。
……そうだね。
さ、次の手をどうぞ?
………。
ヤなヤツ。
ん?
……負けました。(両手を胸の高さに挙げて)投了します。
おや、もういいのかい?
これ以上努力をしても無駄よね。
あーもう……悔しいなぁ。前回やっとのことで久々に白石権を取ったのにー!
対局の途中で別のことを考えるからだよ(くつくつと笑う)
そういう時は、ちょっとは手加減をしてよね。
最近、なかなか勝てないんだよなぁ。もー。
(ふっふん、と鼻で笑い)以前は負けっぱなしだったんだから、いいじゃないか。
お前はもっと相手を揺さぶる技を使うようにならなくちゃな。
兄さんみたく、荒波にもまれてませんから。
……誰かさんが、面倒なことは先に排除してくれるんだもの、苦労知らずになるわよ。
さて、茶でも飲もうか?
喜久屋の薯蕷饅頭を買ってきてあるんだよ(さらりと笑って立ち上がると、キッチンへと消える)
(手をひらひらさせながら)……玄米茶でよろしくー……
(貴秋が視界から消えたあと、勝負のついた盤面をみて)……もう……。

 柳原家の本宅に置いてあった碁盤は、もともと秋子の父か祖父の持ち物。…もしかしたら、それ以前の代からあるモノかも。
 秋子と貴子が時おり碁打ちに興じ(この二人は実はゲーム好き)、友則はもっぱら五目並べ専門でした。春花が30代になってから碁に興味を持ち、貴秋と一緒に碁の勉強を始めます。母・叔母も兄妹も、下手の横好き程度ではありますが(w。
 消えかけた盤の線を秋子の時1回引き直して、たぶん春花の代でもこの十何年かあとに線を引き直すことと思われます。

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