へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

二次創作SS 『マリみてAnotherWorld』

わかきゑるてるたちのなやみ  フラグ付き作品・使用上の注意をよく読んでご利用下さい

わかきゑるてるたちのなやみ 本文

 どうしよう。どうしたらいい?
 私はずっとそんなことを考えている。
 
 二度目の恋をしたのだ。一度目と同じくらいに真剣なヤツを。
 相手はこともあろうか、水野蓉子。
 そう。リリアン女学園時代に務めた3人の生徒会長のうちの一人。
 ちなみにもう一人は鳥井江利子。こっちは悪友。
 過去も今もそのスタンスは変わらない、紛う事なき悪友。
 江利子のことはどうでも良い。なんたって「でこちん」なんだから。
 
 そんなことより蓉子。蓉子のことだ。
 困った。何が困ったかって、蓉子には今、彼氏がいるってことだ。
 相手がいる人間に思いを寄せるなんて、本来なら絶対にしないことなのに。
 それは人間のあり方としてどうかと思うワケだ。
 好きになるのに理由はいらないということだけど、やはり人としてどうかと思う。
 でも私はうっかり、蓉子に恋している自分をしっかり自覚してしまった。
 まずい。まずいぞ。
 これはゆゆしき問題だ。
 よりにもよって水野蓉子で、その蓉子には彼氏がいるときたもんだ。
 そりゃもちろん、ようこに彼氏がいることに、なんら不思議はない。あったらおかしい。
 だって蓉子は、女の私からみても充分に魅力的な女性なんだから。
 ……私がオトコにまったく興味がないっていうのは、ココでは横に置いておいてもね。
 そしてもちろん蓉子も女性で、恋愛対象がオトコに向いてるの至極当然なことなのだ。
 だから。
 今回の私の恋は、まったく成就する気配がない。
 今までもさほど真剣でない恋をして、その相手にオトコがいたってことは何度かあった。
 そのたびに「ですよねー」とすぐに諦めることができたのに。

 今回は何故か諦めきれなくて困ってる。
 
 ……だから、最初の真剣すぎた恋と同じくらいに真剣なヤツだって思うわけだ。
 困った。すごく困った。
 寝ても覚めても仕事をしてても、頭の中は「蓉子・蓉子・蓉子……(endless)」だ。
 仕舞いには取材旅行先で見た市松人形まで蓉子に見えてくる始末。
 そしてその市松人形のレプリカまで買っちゃう始末。
 ……市松人形は、「妹」藤堂志摩子のさらに「妹」の二条乃梨子ちゃんだってーの。
 買ってきた市松人形に『蓉子』って名前を付けて、朝な夕なに挨拶する始末。
 「ごきげんよう、蓉子♪」
 言ってから、必ず自己嫌悪に落ちるんです。これが。
 そんなことを繰り返してると、さらにダメ人間になる。
 ……今でさえ充分にダメ人間の烙印を、大学同期のカトーさんに押されてるってのに。
 そう思ったから、市松人形の「蓉子」を返上して、見た目通りの名前に変えてみた。
 「乃梨子ちゃん」って。「ちゃん」までが名前ね。
 ……本人に知られたら、殴り飛ばされそうだけど。
 それだけじゃバランスが取れないから、うっかりアンティークなビスクドールを買った。
 もちろん名前は「志摩子」。
 今、私の自宅兼スタジオには、「乃梨子ちゃんと志摩子」が仲良く並んでいる。
 そして人形たちに、うっかり自分の恋の相談をしてる自分を発見しちゃったりする。
 ……よけいにダメ人間になったらしい。
 えーとなんだっけ。ホラ、インターネット上で見るアレ。
 ああ、そうそう。
 
 orz
 
 こんな感じだったね、気がついた瞬間って。
 さて、これからどうしたら良いんだろう。考えれば考えるほど分からなくなってくる。
 こういうとき普段の行いの悪さが祟って、現実の人間の誰にも相談ができないのだ。
 江利子? アレはダメ。さんざん笑われたあげくにとことん茶化されて終わるのがオチ。
 そうこうしてる間にどんどん時間が過ぎて、自分の中の気持ちも膨れて、はち切れそう。
 とにかく。私は、蓉子と、どうなりたいのだっっ!!
 さて、どうしよう。どうしたらいい?
 何故私はこんなことをしてしまったのだろう。ゆっくり考えなくても自己嫌悪に落ちる。
 本当は好きな人がいるのに、何故そんなに好きでもない男性と付き合っているのか。
 本当に好きな対象は佐藤聖で、女性だから? それはあまり理由ではないように思う。
 だって聖は公言しているから。
「オトコにはまったく興味がない。恋愛なんて反吐が出る。反対に女の子は好き」と。
 待ち合わせをすると、必ずと言っていいほどその近くまで女の子と一緒にやってくる。
 それも、毎回違う女の子で、二度同じ顔を見たことがないのだ。
 聖は昔から良くもてる。高等部時代には熱狂的な下級生のファンがたくさんいた。
 どうしてあんなヘラヘラした性格の人が超人気者なのかは、私最大の謎。
 そしてとても鈍感な人間。
 目の前にいる子がどれだけ聖に真剣な思いを寄せているかなんて、きっと分かってない。
 見ている私のほうがハラハラしてしまうくらい、聖はいつもヘラヘラと愛想を振りまく。
 そんな心配ばかりをしているうちに、今度は自分が聖に恋してることに気がついた。
 聖の一挙手一投足が気になる。笑いかけられてドキリとする。
 気がついたら聖のことばかり考えている。
 寝ても覚めても。気を抜いたら聖のことを思い浮かべている自分に気がつく。
 街中で、聖の髪の色によく似た外国人を見て、うっかり振り返ってしまうくらいには。
 それではいけない。
 健全な社会人としてまっとうな生活を営めなくなる前になんとかしなくては。
 そうは思っても、暴走しそうな感情はままならない。
 思うだけで何とかなるなら、世に恋愛感情のもつれが原因の事件なんてなくなるだろう。
 ある日そう思い至って、ため息と共にこの状況を納得したし、半分諦めもした。
 佐藤聖はきっと間違いなく、今までの子たち同様、私の思いなんか気がつきもしない。
 だろう、じゃなくて、これは確信。
 そうは思ってみても、この感情はどうにもならない。恋は盲目とはよく言ったものだ。
 ……恋? 本当にこれは『恋』なのか?
 深く考えれば考えるほどよく分からなくなってくる。
 ――蓉子、真面目すぎると体に毒よ?
 そんなことを言ったのは、聖と共通の親友・鳥井江利子だったか。
 ――こういうことはね、気楽に構えていなさいな。
 ……それができれば、きっとココまで悩んでいない。
 聖は男性に興味がなくて、女の子は好き。
 その条件だけ見れば、私にもいくらかの光明はあるように見える。
 しかし、しかしである。
 聖が好意を寄せるのは『女の子』なのである。
 ……ああ、やっぱりダメだ。決して『女の子』とは言えない自分。
 自己嫌悪。もっとかわいい『女の子』でいたかった。
 せめて、聖が好意を寄せるくらいの『女の子』で。
 
 そんなこんなでぐるぐるとリング・ワンダリングしているときに、それは起こった。
 有り体に言えば、「付き合って欲しい」という物好きな男性が現れた、というワケ。
 今思うと、『藁にもすがる』思いだったんだろう。間違いなく。
 まったく知らない人ではなかったし、人柄も良い。同業者のいう点もポイント高し。
 だからというわけではないけれど、一晩考えてから、OKした。
 そして現在に至る。
 ほどなく男女の関係になってもみたが、どうもしっくりこない。
 相手は優しいし、紳士だし、ちゃんと社会人として申し分ない人なのに。
 やはり聖のことばかり考えている。
 そして、彼から来るデートのお誘いも、最近では少しうんざりしている始末。
 さっきも届いたお誘いのメール。それに対してした返事は……
『今忙しいから、ごめんなさい』
 同業者だから、お互いの忙しさは分かってるので、こういうときは便利。
 でも、本当は忙しくなんかない。単に彼に会いたくないだけ。
 小さな嘘が積み重なっていく。
 重なっていくたびに、罪悪感が薄れていく。
 ああ、こういう自分がどんどん嫌になっていく。
 彼への罪悪感は薄いのに?
 ああ、もう。どうしてこんなことになったのか。
 聖と彼、どちらとも、私は一体、どうしたいのか? どうなりたいのか?
 一体、これは……。
 こ、これはどうしたわけだろう。
 というか、何がお互いに起こったのか?
 なぜ、どうして。相手が生まれたままの姿で私の目の前にいるのだろう?
 考える。
 考える。
 考える。
 ……わからない。
 いつものように、どちらからともなく連絡して、街で待ち合わせて食事に行った。
 お互い忙しい身なのに、今日に限って不思議とスケジュールが合った。
 それも、かなり早い時間に。
 世の中の飲食店が、殺人的に忙しい時間帯なんて、ここ数年行ったことなかったのに。
 そんな久々すぎる状況は、私たちをほとほと疲れさせた。
 食事でのんびりできなかったので、どちらともなく「飲みに行こう」と言いだした。
「どこに?」
「そうね、のんびりまったり飲めるところがいいわ」
「カクテルみたいな感じで?」
「ああ、そういう感じかしらね」
「じゃぁ、行きつけのホテルのラウンジがあるのだけど、そこはどうかしら?」
「ああ、良いわね。そういうところで飲みたかったの」
 そんな会話をして、今いるホテルの、最上階のラウンジに行った。

 すごく良い雰囲気の場所だった。
 地上の喧噪なんて、どこかに忘れてきたような、そんな空間だった。
 飲むには少し早めの時間だったことと週のまん中というのが重なって、店は空いていた。
 飛び込みで入ったのに、窓際の良い席に通された。
『いらっしゃいませ、○○様。』
 ドアマンが言ったことを茶化してみたら、「仕事関係で時々ね」と軽く返された。
 なかなか良いご身分ですこと、と私は肩をすくめて笑った。
 最初は軽いカクテルで乾杯をした。
 時間はたくさんあるのだ。せっかくの雰囲気と空間をゆっくり楽しもう。
 相手もそう思っているみたいだった。
 適度に間隔をあけてグラスが重ねられる。様々な色のカクテルが順に出てくる。
 のんびりと話す。とても久々に。ゆったりとした時間がふたりの間を流れていく。
 私はそのとき確信した。
 私が欲しかったのは、目の前の彼女と共有したかったのは、こういう時間だったのだ。
 この優しい、学生時代から続いてきたゆるやかな時間こそが。
 その時は、確かにそう思っていたのに。
 今のこの現状は。
 一体。
 何?
 
 逃げたい。逃げ出したい。
 目の前の彼女もきっと同じことを考えている。
 表情がその事実をこちらに否応なしに伝えてきている。
 どうして良いか分からない。どうしてこうなったのかも分からない。
 たぶん自分も同じ顔をしている。
 ああ、マリア様。
 しかし。今このチャンスを逃すと、きっとこの先一生こういう場面は訪れない。
 予感じゃなくて確信。
 いいかげん、この年になったら見えてくるものもあるのだ。
 それは……
 
『セックスから始まる関係もある』
 
 ああ、大人って。自分もそんな爛れた大人の考えに囚われているなんて。
 でも、もう……こうなってしまった以上……
『思い切って前に進んじゃいなさいな。』
 何故か江利子の声が聞こえた。
 ……先達である人妻の言葉は、こういう時、何故か、説得力が、ある。
 待て待て待て。本当にこれは現実なんだろうか?
 確かに蓉子は私の目の前にいる。そしてふたりとも今の姿は……。
 さっきシャワーを浴びながら、私は一体何を考えていた?
 思い出せない。記憶がスッパリと抜け飛んでいる。

 ラウンジでのんびりしすぎた。気がついたら終電に近い時間帯だった。
 目の前に広がっている超高層な場所から見える夜景がとても幻想的で。
 カクテルは、はじめのうちは軽いものだった。
 杯を重ねるうちにだんだんとアルコールも味もが強いものになっていった。
 私も蓉子も、酒はかなり強い。
 学生時代に蓉子の部屋で飲み比べをしたことがあったが、決着が付かなかった。
 今回はそれが裏目に出たのだろうか? いや、そんなことはないと思いたい。
 お互いに「ちょっと飲み過ぎちゃったわね」とラウンジで笑いあい、席を立った。
 エレベーターホールで蓉子が時計を確認して、「あら、終電が……」とつぶやいた。
 私も蓉子の時計を覗き込んで、「ありゃ、乗り継ぎが……」とつぶやいた。
 それがどうもいけなかった。
 「どうする? 面倒だからこのまま泊まっていく?」
 私がへらりと言った。……そう言ったのだ。へら~っと。
 思い出したよ、コンチクショウ。
 この間抜けなうっかり口(グチ)め!
 こんな時に学生時代に戻らなくてよろしいのに。
 あれは私の黒歴史な日々なのだから。
 蓉子はちょっと驚いたような顔をして、それから「そう、ね……」と頷いた。
 エレベーターに乗って、下に降りて、フロントにGO!
 運良くツインルームが空いていた。それもいけなかった。
 空いてなかったら、タクシー相乗りで帰れたのに。方向はちょっと違うけど。
 またもやエレベーターに乗って上昇。今度はまん中よりちょっと上くらいの階で降りた。
 カード型のルームキーで扉を開けて中に入った。
 ゆっくりとくつろげる、小ぎれいな空間が広がっていた。
 ……まぁ、あとは何だ。そう。シャワーを浴びた。蓉子に先を譲った。
 蓉子が使うシャワーの音をかすかに聞きながら、私はのんびりくつろいでいた。
 TVでCNNなんか見ちゃって。いつものように家にいるみたく過ごしてた。
 この時までなーんにも考えてなかった。蓉子と自分がひとつの部屋に泊まってるなんて。
 それがもたらす意味なんて。
 ホントに、ゼンッゼン考えてなかったんです!!

 だのにだのに。どーしてこんなことになってるかな?
 なんで蓉子は全裸で私の前にいるんだろう?
 私もなんで全裸で蓉子の前にいるんだろう?
 ああ、マリア様。
 これは、進めってことですか?
 でも。でも。でも。
 本当にそれでいいのだろうか?
『セックスから始まる関係もある』?
 それってホントにあるワケ? そんなんで関係が長続きするの?
 セックスだけに終始しちゃって、それ以上にはならないんじゃないの?
 蓉子に恋してるって自覚して以降、私は表面的に付き合ってた女性たちとすべて別れた。
 そらもうスッパリきっぱりと。
 その後は、こう言っちゃなんだが、身持ちが堅い。
 今までの私からしたら、鬼が攪乱したかってな具合に。
 そう言って笑う「でこちん」もいたっけかそう言えば。
 そのくらい今、女っ気がない。
 それって、何のため?
 何のためだったの?
 それは、考えなくても分かる。
 蓉子と、
 もし恋人として付き合えるようになるのなら……。
 蓉子に
 蓉子に
 蓉子に、真摯でありたいと思ったからではなかったか。
 これは……。本当に現実なのだろうか?
 今、自分の身に起こっていることが理解できない。
 理解できているけれど、理解したくないのかもしれない。
 聖が全裸で私を見ている。
 私は聖に全裸を晒している。
 ほら、状況は理解できてる。では何が理解できていないの? こうなった経緯(いきさつ)?
 ラウンジを出た。終電間近だった。聖からの提案。私の了承。
 了承。
 それはこういう事を含めた了承だっただろうか? その時私は何を考えていた?
 一瞬何かを考えた事は憶えているけど、何を思ったのかはまったく思い出せない。
 フロントで部屋を借りる。入室。それから……。
 聖の様子はいつも通りだった。順番に何かをするとき、かならず私に先を譲る。
 レディーファースト。女性ではあるけれど、いわゆる「紳士」なのだ。
 嫌みのないくらい板に付いている。なんだかそれがちょっと悔しい。
「蓉子。シャワーかお風呂、先に使いなよ」
「……いえ、聖のほうこそお先にどうぞ?」
「いやー私、今からニュース見たいんだ。いつも見てるヤツ。だから……」
 お先にどうぞ、と聖は言った。じゃぁ、と私は先にシャワーを使った。
 バスルームから出てきたら、聖は、言ったとおり、TVを見ていた。
 それもCNNを。字幕でも同時通訳でもない、原語バージョンで。
 私がバスルームから出てきても、聖はしばらくTVを見ていた。
 そして私の髪が乾く頃に、やっと腰を上げてバスルームに消えた。
 程なくして聖がバスルームから出てきた。髪の毛先から滴がポタポタ垂れていた。
「髪、ちゃんと拭いたら?」
「んーいい。寝てたら乾くし。起きたらまたシャワー浴びたらいいし」
 そんなことを言ってベッドにさっさと入ろうとする。
「こっちにいらっしゃい。拭いてあげるから」
「いやいいよ。もう寝るから」鬱陶しがっている聖にカチンと来た。
「いいから。そのまま寝ると風邪引いちゃうわ」
 いきなり聖の手を引いて、自分のベッドの方に引き寄せた。
 たぶん、それがいけなかったのだ。……たぶん。
 そして。
 気がついたらこんな事になっていた。
 脱がされたのか脱いだのか、脱がしたのか脱いだのか。
 そして。いつ、どっちが、室内灯を落としたのか。
 とにかく、気がついたらこんな事になっていた。
 そしてお互い固まってしまっている。
 進むことも引くこともできなくなって、私たちに間に、どれくらいの時間が流れたろう。
 ああ、マリア様。
 でも、でも……。
 本当にこれで良いの? 後悔しないの? 『セックスから始まる関係もある』?
 確かにそういうこともあるだろう。でもそれってただの言い訳ではないの?
 自分たちを正当化するための、都合の良い言葉ではないの?
 そんなに大層な女では、もちろん私はないけれど。身持ちは堅い方だと思ってる。
 それは思っているだけであって、今までの人たちが紳士的だったというだけではないの?
 それに、彼とまだ付き合っているのよ。だのに、だのに、だのに……。
 本当にこれで良いの?
 “彼”にも聖にも、とても失礼なことをしようとしているのでは?
 止まるなら今だ。今なのに。今なのに。
 引くことができない。進むこともできない。
 それどころか、今いきなり、聖が笑ってくれないかと思ってる。
 にへら、と笑って「なーんてね、蓉子」と言ってくれないかとさえ思ってる。
 でも目の前の聖は。
 固まっている聖は。
 まるで小さな子供のようで。迷子の子供のようで。
 どちらかが動かなければ、この沈黙は永遠に続く。それにはきっと耐えられない。
 それよりも、聖のこんな顔を、消えてしまいそうな姿を、私はずっと見ていられない。
 だからというわけではないけれど。
 右手が。聖に、向かって伸びて……。彼女の。左手を……。
 “彼”のことなど、まったく頭になかった。
 まぶたの裏が淡い光に侵される。まぶしさにふと目が覚めると、目の前に何かがいた。
 じり…と目を開く。ゆっくりと緩慢にその何かがはっきりと像を結ぶ。
“彼女”だった。
 お互いの鼻と鼻がくっつきそうなくらいの距離。
 もちろん、びっくりした。そう、「心臓が飛び出る」。その表現のままに。
 びっくりしすぎて動くことができない。心臓が早鐘のように鳴り響く。
 その音が体の中を駆けめぐって、皮膚のあちこちから飛び出しそうな感覚に襲われる。
 そのせいだろうか。鼓膜が破れそうだ。体もあちこち痛い。
 ドキドキしながら、痛みに悩まされながら、それでも鼻先を彼女にそっと近づける。
「くん」と嗅ぐ。
 鼻腔の奥に彼女の香りが広がって、何かがじわりと体に染み渡る。
 染(そ)んだ何かが、中心から先端に向かって、体中をかすかに痺れさせる。
 その頃には憶(おも)いだしていた。
 昨夜のことを。彼女と私、何があったのかを。
 ずっとこうなることを望んでいたのに、素直に喜べない。
 どうして?
 お互い、酒をしたたかに飲んだ上でのことだったから?
 それとも。
 それとも?
 目の前の彼女はまだ目覚める気配がない。
 いつの間にか、ドキドキも痛みも治まっていた。
 私はそろりと体を動かして彼女に背を向け、窓のほうを見る。
 カーテンが開いていた。だから明るいのか。
 彼女がバスを使っている時に、私が開けたのだ。それをうっかり閉め忘れていたらしい。
 このホテルの周りには、あまり高い建築物は多く存在しない。
 しかし高層階にいるからといって、ちょっと不用心だったかも。そんなことを考えた。
 何時だろう?
 頭を巡らせてぐるりと周りを見回す。
 ベッドとベッドの間に設置してあるサイドテーブルの上に、時計はあった。
 午前6時37分。
 始発はとうに始まっている。
 彼女を起こさなければ。起きて、お互いに帰宅しなければ。
 そう思って、また彼女の方を向く。しかし彼女はぴくりとも動かない。
 無理をさせすぎたのだろうか?
 お互いに無我夢中で、何時に終焉を迎えたのか、そしていつ眠ったのかも憶えていない。
 何回やったのかさえ。
 憶えていることといえば、お互いただのケモノだったことだけだ。
 何度も求めて、お互いを喰らい尽くした。
 その時は、とても満ち足りていたのに。
 彼女を自分のモノにして、自分も彼女のモノになった。融け合った。
 そう思っていたのに。
 目が覚めてみれば、私たちはやはり融け合ってなんかなくて。ふたつの個体で。
 本当にこれで良かったのだろうか?
 これから私たちは何かが変わるのだろうか? 何かが始まるのだろうか?
 そろり、と手を伸ばして、彼女の髪に触れる。
 指先で触れるそれは、絹糸のような光沢と感触で。
 しばらくの間、私は指先で、彼女の髪を玩んでいた。
 そろそろ本格的に起こさないと。
 指を、そのまま彼女の髪の中に埋める。それから揺り起こそうとした、その時。
「起きているわよ」
 彼女の声がいきなり聞こえた。私はとっさに手を引っ込めた。
「起きていたわよ」
 彼女の目が、うっすらと開いていく。
 こっちを見ないで。お願いだから。私は逃げ出したい衝動に駆られる。
 しかし動けなかった。金縛りに遭ったように、動けなかった。
 彼女の瞳がこちらのほうに動いてくる。長いまつげの間から、まっすぐ私を捉えてくる。
 恐怖。どうしよう、何を言われる? もし、拒絶の言葉だったら?
 動けないままに、私は彼女の次の言葉を待った。やがて、小さなため息が聞こえた。
「今日はね、仕事は、しない」
 彼女は苦笑混じりに一言、そう言った。
 朝が来ていた。部屋が明るい。
 カーテンを閉めていなかったのだろうか?
 私は開けた記憶がないから、もし開けたとすれば隣で寝ている“彼女”だろう。
 カーテンが開いていることにすら気がつかなかった。
 私もかなり切羽詰まっていたと言うことか。
 この明るさなら、電車はもう走り始めているだろう。
 起きなければ、しかし……。
 布団の中に鼻を埋め、目を瞑る。
 独り寝にはない温もりがあり、独り寝にはない匂いがする。
 二人分の人間の匂い。
 人間の匂いの向こうに、かすかにもう一つのヒトの匂いがする。
 混じり合ったヒトの匂い。昨夜このベッドの中で何があったのかの、証(あかし)。
 隣で“彼女”が動いた気配がした。起きたようだ。
 泥のように眠っていた彼女。
 その眠りはあまりに深くて。呼吸をしているのだろうかと、心配したくらいに。
 私は動かない。眠ったふりをする。証である匂いが、さらに私の奥をくすぐる。
 ごそり、ごそり……。
 彼女が動いている。
 どうしているだろう。どんな顔をしている? 幸せそうにしてる? それとも……。
 彼女は息を殺している。彼女の視線を感じる。殺した息の、微かな音が耳を打つ。
 空気が重い。
 ああ、後悔しているのね。
 そう感じて、私は少し泣きたくなった。
 どうしよう。どうしたらいい? 目を開くタイミングが分からない。
 でも、でも。いつかはこの沈黙を破らなければいけないわけで。
 沈黙を破った時、私たちの間に何が始まるのだろう?
 それとも何も始まらない? あるいは終わってしまう?
 彼女が私の髪に触れている。たぶん指先で。それが少しくすぐったい。
 どの未来が待ち受けているのか分からないが、そう遠くない時間にそれは動き出す。
 私は決めなければならない。
 どのタイミングで目を開け、彼女と話をしなければならないかを。
 その時、彼女の手が私の頭の中に侵入してきた。「来た」と私は思った。
「起きているわよ」
 言うと、彼女の手はびくっと一瞬飛び上がって、それから素早く去った。
「起きていたわよ」
 驚かせすぎてしまったか? 目を開けると、怯えた目をした彼女が見えた。
 私が何を言うのかを、構えて待っている。
 間違えば、その怯えは一瞬にして攻撃感情に変わる。それが読み取れる目をしている。
 だから私は言った。彼女にフェイントをかけるために。
「今日はね、仕事は、しない」
 彼女が帰るならば一緒にホテルを出ればいいし、そうでなければもう一泊してもいい。
 本音だった。正直寝不足だし、体も辛い。もうそんなに若くはないのだ。
 きょとん、としている彼女のほうに、体を向けた。横目で見続けるのも楽じゃない。
「今日はね、お休み。……仕事したくないから」
「えっと……」
「……どうする? 帰る? それとも……」
「……も、もうしばらく、寝たい……かも?」
「そうね。チェックアウトまでもう少しあるしね」
 言って、彼女に手を差し伸べた。
「な……に?」
「いらっしゃい。抱いてあげる。……抱っこして、寝てあげる」
「なにそれ。私、子供じゃないわよ?」
 彼女がちょっと拗ねてみせる。そして素直に私の腕の中に入ってきた。
 彼女は私の胸に顔を埋めてきた。私は彼女の頭を、体を、そっと抱く。
 胸の中で、安心したような小さなため息が漏れ、抱っこした彼女の体から力が抜けた。
 よかった。
 私もまた安堵した。
 なにが「よかった」のか分からないが、その時の正直な感情だった。
 まだ何も始まっていないけれど、今は、この揺籃(ようらん=ゆりかご)のような時間に揺られていたい。
 きっと“彼女”もそう思っている。
「眠る前にひとつ訊きたいのだけど?」
 蓉子は聖に言った。
「なに?」
「場合によっては、今からフロントに電話しようかと思って」
「……?」
 蓉子の言いたいことがわからなくて、聖は小首をかしげた。
「できれば……その……もう一晩、泊まっていきたいのだけど?」
 蓉子は顔を赤らめて、口の中でごにょごにょと呟いた。。
「……え? ……あ"……。あー……えっとぉ……」
 聖は蓉子の言わんとしていることを理解しようとして失敗し、目を白黒させた。
「でもさ、着替えとか、どうすんの?」
「あ……」
 蓉子が、それに今始めて思い至ったように、目を見開いた。聖は思わず吹き出した。
「じゃ、こうしよう」
 時間が来たらチェックアウトして、そのまま蓉子の部屋に行く。
「そして今夜は、私が蓉子んちに泊まる。……てのはどう?」
 それが聖からの提案だった。蓉子は「ええ、いいわよ」と小さく頷いた。
「それとね、聖」
 蓉子が目を伏せた。
「私、“彼”と別れるわ。……ごめんなさい。まだ付き合っているというのに、こ――」
 聖の手が伸びてきて、指先で蓉子の唇を塞いだ。
「それは、私じゃなくて、彼氏に言うべき言葉じゃない?」
「……そうね。その通りだわ」
「……嬉しいよ」
「え?」
「だって。……それって、私の方が好きってことでしょ? 少なくとも彼より」
 聖の言葉に、蓉子は思わず視線を上げた。
 そこには、照れたような困った顔をして蓉子を見つめている、聖の顔があった。
「ええ。……ずっと、あなたが好きだったの」
「そ。……うん。私も――……て、あれ?」
 聖の目から、ぼろぼろと、涙があふれてくる。
 それを止められなくて焦っていると、蓉子が聖を抱きしめてきた。
「よ……」
「眠りましょう。……疲れているのよ。あなたも私も」
 蓉子の香りがふわりと聖を包む。聖の香りが蓉子をやさしく包む。
「おやすみなさい。聖」
「うん。おやすみ。蓉子」
 ほどなくしてふたりの元に、眠りの神(ヒュプノス)が夢を司る者(オネイロス)と共に降りて来た。

   未来は見えない。
   人の心もまた。
   だからひとり悩んで。悩んで、勝手に結論する。

   深淵を覗くのは簡単である。
   深淵は常に自分が作り出す甘い罠。
   わざわざ覗いて自分で落っこちる。

   人は誰もが臆病で。
   誰も傷つけたくない、と思っている。
   でも裏返せば、自分が傷つきたくない、だけなのだ。

   それらの愚かしさ。

   しかし。
   そのことを、誰が責めることのできよう。
   誰もがそうなのだから。

   ヒトは常に愚かしい。
   だからこそ、
   愛おしい存在なのである。

 またあとで。またあとで。
 目覚めの向こうで。僕たちは、新しい世界へ踏み出すのだ。
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