へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

二次創作SS 『マリみてAnotherWorld』

それさえも、ロクでもなく素晴らしき日々。  フラグ付き作品・使用上の注意をよく読んでご利用下さい

それさえも、ロクでもなく素晴らしき日々。 本文

 水野蓉子とつき合おうって気になれない。
 私はずっと、そう思っている。
「つき合う」っていうのは「友人として」でなく、大方の読者の予想通り、「恋人として」ってことだ。蓉子が私を“特別に”好いてくれているのは判っているし、私も蓉子に対して友達以上の感情を抱いている。しかし「恋人(Lover)」な関係になりたいとは思わないし、思えない。
「なぜ?」と訊かれても、それには答えられない。
 だって、当人である私ですらその理由が分かっていないのだから。
 それが佐藤聖クオリティ。いぇい。
 もう一人の親友「でこちん」こと鳥居江利子と、恋人としてつき合おうとは微塵も思わない、というか、思えないのとは、ちょっと……いや、かなり次元が違う。たぶん、いやいや、間違いなく。

 私が大学3年の夏。我が国ニッポンは、某国から始まった世界的不況のあおりをもろに食らって、空前絶後の国内不況に陥った。株価は急落し、月を追うごとに倒産件数は右肩上がり。派遣切りは当たり前になり、ちまたは失業者であふれかえっていた。
 そんな中、大学4年になった私は、表面っつらの世渡りのうまさを発揮して、梅雨の雲間に夏の予感を感じるようになってきた頃にはちゃっかりと、そこそこ大きな外資系の会社から内定をもらい、就職活動に汗水たらしている同期のみなさまを尻目に、最後の学生生活を謳歌していた。
 ところがどっこい。奢れる者は久しからず。
 内定をもらっていた会社の日本法人が何の予告もなくいきなり倒産。親会社はそれを期に本国へ撤退してしまい、私は冬の風が厳しくなりつつある時期に、翌年春からの見通しが立たない状態になってしまった。
 じゃ、父親に泣きついて、父の会社でこき使ってもらおうか、とか甘いことを考えたが、やっぱり世の中そうはうまくいかない。時に不幸は雪だるま式に大きく身にまとっていくことがあるらしく、まさにこのときの私がその状態だったようだ。
 ……まぁ平たく言うと、父の会社も倒産してしまったワケで。
 あるとき父は私にこう言った。
 「これからは、一人で生きていけ。 俺は母さんと旅立つから」
 ……有り体に言えば、借金取りから逃げるために、母ともども姿をくらましたってワケ。
 なんてこったい、Oh Jesus!
 かくして、私は大学時代にアルバイトをしていた某出版社で、引き続き、科学論文の下翻訳とか、近所のコンビニでヘルプ要員のバイトとかをしながら、この不況を、世の流れに逆らわずおとなしく過ぎ去ってくれるのを待つことにした。
 こうして佐藤聖は、半ニートの引きこもりになった。

 「人生万事塞翁が馬」と言うけれど、それは世の中の景気にも当てはまると思う。戦後最大とか言っていた不況はほどなく収まり、以前ほどではないにせよ、そこそこ景気も上向きになってきたような気がする。
 気がするっていう理由は、翻訳バイトの依頼件数が増えてきたし、内容も、論文系だけでなくバラエティに富み始めたってところからの判断である。実際的に翻訳の方が忙しくなってきたので、あまり時間単価が高くはないコンビニのバイトはとっとと辞めてしまった。それでも収入は以前より多くて、まぁそうなると必然生活もそこそこ楽になってくる。
 しかし人間、一度引きこもってしまうとなかなか外に飛び出そうとは思えなくなるらしく、私は就職口を探そうって気が起こらないのをいいことに、ぶらぶらと適当にこの安アパートで暮らしてる。

 そこへ水野蓉子がやってくる。
 来始めたのは私が半ニートの生活に入って3~4ヶ月ほどしたころだったから、まぁかれこれ3年半くらいになるだろうか。
 3年半と言えば、4年制大学の最短期間に匹敵する。そんな長い期間、水野蓉子はこのアパートに通っている。そしてそれをやめる気配もない。よくぞ飽きないものだと佐藤聖は感心する。マジでマジで。
 その間、ちょっとしたニアミスとかあるにはあったけど、それはお互いの努力(?)で全力回避された。
 そうなってしまうと、今度はそれ以上お互いには踏み込もうとは思わなくなるよーで、すくなくとも私はそうで、両手を広げてお互いの指の先が触るか触らないかという距離以内には、寝るとき以外、物理的に近づかないようになってしまった。
 (寝るときはベッドと床に置いた寝袋に別れて寝る。ちなみにベッドは蓉子、寝袋は私だ。)
 そんなこんなもあって、他人から見たらきっと夫婦のような関係に見えるかもしれないが、私は蓉子とは今以上の関係にはなろうとは思わなくなってしまった。たぶん蓉子の方も同じことを考えていると思う。

 水野蓉子は飽きもせずにやってくる。最初のころは律儀に私に必ず連絡をくれて、私の都合がを聞いてから来ていたが、そのうち私の方がそのやりとりを煩わしく思うようになってしまい、「いちいち連絡くれなくていいから」と合い鍵を作って渡したのが3年ほど前。蓉子が私を定期的に訪ねてくるようになって半年経ってなかったように思う。どれだけ面倒くさがりで根性がないんだ私は……って感じ。今考えると。
 半ニートで引きこもりの私は、今もそうだけどたいがいアパートにいるわけで、いないときはたいがいコンビニにバイトに行っているワケで、実際そんなに行動半径は広くないのだ。心配だったらコンビニに蓉子が足を運べばいいだけのこと。などと、超身勝手な考えだったのだ、当時は。
 合い鍵を渡して以降、蓉子はきっちり定期的に、土曜の夕方から夜にかけて現れるようになった。そのまま泊まり込んでいくときもあるし、終電かその1本前で帰ることもあった。泊まった時は次の日の夕方まで掃除とか洗濯とか食事の作り置きとか、そんなことをしてくれる。なにもなければ、お互いに何をするわけでもなく、話をするわけでもなく、冬にはこたつも兼用しているテーブルの、あっちとこっちに座ってだらだらとした時間を過ごしている。

 基本的に私は、蓉子の訪問を嫌がりはしないけれども、歓迎もまたしていなかった。どうしても蓉子に会いたくない日――それは蓉子のみならず、知人友人顔見知りの誰とも会いたくない日なのだが――は、一駅むこうの駅前にあるネットカフェに引きこもる。ほとぼりが冷めたらアパートへ帰る。そんなとき蓉子は、帰宅したわたしの顔を一目見ると困ったような顔をして肩を小さくすくめ、そして無言で帰って行く。
 きっと私は蓉子に甘えているのだ。蓉子はどんなことがあっても、私を見捨てたりしない。そんな思いが心のどこかにある。

 そういえば、と私は時折考える。
 いつ頃から蓉子と私はこんなに話をしなくなったのだろう。話をしないというよりは、共通の話題がない。……というのが正しいような気がする。
 高等部を卒業した時、私はリリアンに残り、蓉子は他大学へと出て行った。
 それはお互いに自分の将来のことを考えた結果であり、もちろん足並みをそろえる必要なんてまったくない。ただ思うのは、それでも大学3年くらいまでは、会えば昨日の続きみたいな会話がするりとできてたはずなのに、いつの間にかお互いが他人行儀っていうか、お互いに共通の話題がなくて、気まずい沈黙がふたりの間を流れているのに気がつく。
 これが江利子も一緒だったらそんなことはあまりない。たぶん、江利子が接着剤のような役割を担っているんだろう。
 中等部の頃だったか、高等部で「つぼみの妹」になった当初だったか、蓉子が私と江利子の接着剤の役割をしていたように。
 
 ……。
 話が長くなった。過去のことはいいんだ。問題は今だ。
 そして今現在である。今日は土曜日である。
 私は時計をちらりと見る。午後9時を回って、長針がすでに45度近く傾いている。
 今日は土曜日である。
 ……なぜか、蓉子は来ない。
 毎週土曜日に私の家(アパート)に通うようになってから、蓉子はやはり生真面目で、来られない日は必ず連絡をよこしてくるのだ。7時を過ぎそうな時も同様に、である。
 一度連絡なしに8時ちょっと前にやってきてみたら、私が腹を空かせて、黙って弱っていたから、来る気があっても7時を過ぎそうなら必ず連絡をくれるのである。いわく、「先に何か食べてて」と。
 そんな蓉子が、来る気配も連絡をしてくる気配も……ない。
 だったら私の方から連絡すればいいんじゃないか? と賢明な読者諸君は思うかもしれない。しかしここでもそうは問屋が卸さない。
 このアパートに引きこもって1年経ってない頃、私は携帯電話の料金未払いで、その権利を失ってしまった。しかしそれでは仕事の電話を受けることができない。そこでまた携帯電話を契約できるようになるまでの対処として、プリペイド式携帯電話を持つことにした。恥ずかしい話、この時の金子(きんす)は蓉子から借りた。そしてまだ返済は終わっていない。
 プリペイド式携帯電話なら、なんとか維持できる。基本的に電話は受けるだけで良いわけだ。ただ、そうも言ってはおれなくて、翻訳のバイト先に、こちらから連絡を入れなきゃいけない時がどうしてもあったりするから、プリペイドの最低料金・60日間で3000円の通話分は取っておかなきゃいけない。メールも契約によっては使えたりするけど、やはりそれにも料金がかかるから、私はメールも使っていない。
 この携帯電話は、単に「鈴」なのだ。私という人間が、行方不明にならないようにするための「鈴」なのだ。
 もう一度時計を視界の端に入れる。
 長針はすでに真下を経由してちょこっと出張っていた。こーやってちょろっと与太話をしている間にも、時間は無情に流れていくらしい。しかし蓉子はやってくる気配も連絡をよこす気配もない。
 なにかあったのだろうか?
 ここまで考えて、ふと私は思い至る。
 私が水野蓉子の行動を縛ったり監視したり、はたまた心配したりする権利はどこにもないのだと。
 私が自由勝手に振る舞って生きているように、蓉子もまた自由に蓉子の人生を、大げさすぎるなら蓉子の生活を営めばいいのである。
 蓉子が3年ものあいだ土曜のたびにこの部屋に現れていたからといって、今日という土曜日にまた現れるとは限らないのだ。蓉子が社会人になってそろそろ4年。仕事も順調そうだし、彼氏だって蓉子がその気になればすぐにできるだろう。実際、大学時代に何人か蓉子をねらっている男どもがいた。蓉子は気がついてないか、気がついているのに無視をしていたかのどちらかだろうが、なかなかどうして、蓉子と同じゼミに所属しているだとか、同じ講義を受けているだとかの男どもから、嫉妬が混じった羨望のまなざしを、私はひしひしとこの身に受けていたもんだ。
 だから、私にかまける時間の無意味さに気がついて、ここに来ることを止めたとしても、私は蓉子を責められない。もちろん責める気もないけど。
 体の底の方から、じわじわと寂寥感がこみ上げてくる。なんとも切ない。
 ぐぅ…と寂しげな音が聞こえる。
「……おなか……空いたかも……」
 なんのことはない、寂寥感の正体は、どうやら空腹感だったようだ。
 正体見たり、枯れ尾花。
 私は、今はちゃぶ台としての機能しかないコタツ台の天板に、ごつん……とおでこをくっつけた。あ……やばい。これは空腹でいきなり弱ってきたパターンだ。
 生ぬるぅいプールの底に沈んでいくような感覚が全身を満たしていく。
 意識が、だんだんと、沈んでいく。
 このまま砂のように崩れて、塵芥(ちりあくた)となって消えてしまえばいいのに。混濁していく意識の中で、私はそんなことを考える。
 どうせ世界は、私なんかいなくても、勝手に未来に向かって進んでいくのだ。
 蓉子だって、私がいなくなれば、土曜の夜をもっと有意義に使えるはずで。……よーこ、今日、どうしたのか……なぁ……。
「聖」
…………。
「聖」
…………。
「起きて頂戴、聖」
…………。
「――、できたから」
 ぼーっとしながら頭を上げる。眉間に重いモノが張り付いてて、目は半眼のままうまく開いてくれなかった。
 眉根が寄ったまま、声のするほう、自分の正面を見る。
 まず入ってきたのは、目に痛いくらいに白い米粒の、おにぎりの大群だった。
 それは実は本陣で、前衛には豆腐とワカメの味噌汁。右翼に黄色いお新香。左翼に目に鮮やかな緑茶。後衛には腕組みをして私を見下ろす蓉子の姿が見えた。
 「寝ぼけてるの?」
 小首をかしげて私をまっすぐ見つめてくるその人は、確かに水野蓉子で。
 そして私の前でほかほかと湯気を立てているおにぎりや味噌汁を作ってくれたのも、たぶん水野蓉子で。
 ……あ、なんか涙出そう。
 「寝ぼけてても良いから、あったかいうちに食べて頂戴」
 その素っ気なさが、よけいに涙出そう。………てか、涙出た。
「……え……ちょっと、せ……」
 ああ、いかんいかん、要らぬ心配をさせてしまう。
 私は目の前に置かれていた箸をガッと掴んで手を合わせると、いらっしゃいもありがとうもなく「いただきます」と蓉子に一礼して、味噌汁に取り付いた。
 「おいしい。美味しいです。蓉子さん」
 満面の笑みで食べようと努力しているのに、自分の意に反して涙がどんどん流れてくる。おにぎりがよけいにしょっぱく感じる。
 ハナミズをすすり、味噌汁をかきこみながら、汁椀越しに蓉子を伺い見る。いつもの土曜と同じように、私になんか意識も向けずに、おにぎりを食べて、味噌汁を飲んでいる。なんだかそれが、いつもの蓉子が嬉しかった。また涙が出そうになった。今日の私はどこかおかしい。
 とにかく食べろ、何も考えずに。食べろ、食べろ、食べるんだ! ジョォォォーーっっ!!
 がふがふがふがふー。
 
「今日は遅くなってごめんなさいね」
 蓉子が真面目な顔をして、いきなり口を開いた。私はびっくりしておにぎりを喉に詰めそうになる。
「連絡したかったんだけど……」
 いや、待て待て。言い訳なんか聞きたくない。そんな気分じゃない。
「実は、携帯を水(すい)……」
「よーこ!」
 私は大きな声で蓉子の言葉を遮った。ホントに今は、言い訳なんか聞きたくないんだって。
「は……はいっ」
 蓉子は驚いて、姿勢を正す。黒い瞳が大きく見開いて、すごく可愛かった。
「こっ……これからも、ずっと、ごはん作ってよ」
 なにを言いだすんだ、私はっっ!!
「どどど……土曜だけじゃなくって、ずっと、ずっと……」
 こらこらこら。このうっかり口め、止まれ止まれ止まれっっ! ていうか、蓉子の“孫”、福沢祐巳が乗り移ったか? 道路工事をしている場合じゃないっつーの!
「せ……」
 蓉子は毒気を抜かれたような、呆けた表情(カオ)をして、こちらを見ている。そら当たり前だわな。「いただきます」以外ほとんど何も喋らないでがふがふと食べていたと思ったら、寝トボケたようなことを曰いはじめるんだから、目の前の人間が。
「ごはんだけじゃなくって……」
 こ、こら私、何を言おうとしているっっ!
「好きなんだ、蓉子が。今日、すごく……すごく心配だった。だからっっ……」
 だから、なんやねん! ……ってー、今絶対に、空腹が過ぎて脳みそがおかしくなってるからっっ! 蓉子、頼むっ……頼むから本気にしないでっ。
「一緒に住もう! ちゃんと仕事探すしっ。 ココじゃなくて、もっと広くて綺麗なところにっ!」
 だぁぁぁぁぁぁぁ……。
 一気にまくし立てて蓉子に迫る。ご丁寧にコタツ台に手をついて、膝で立ち上がって。
 さぁ、どう出る、蓉子さんっっ!
「…………」
「…………」
「……せ……」
「……せ?……」
 蓉子は迫る私に驚いているのか、上半身を後ろに、倒し気味に引いちゃってる。
 私と言えば、もう行動と脳みそが完全に分離しちゃって、自分でもなにやってるのかワケ分からなくなってる。
「聖、……あなた、まだ寝トボケているの?」
 ……えーとぉ……その反応、ごもっともです。
 蓉子の言葉に我に返った私は、なんだか気が抜けちゃって、へたり、といつも自分が座っている薄っすい座布団の上に尻を落とす。
 なんだか視界が定まらない。ぐーらぐーら世界が揺れている。……と思ったら、いきなり天井が見えて、さらにそれが遠ざかったなーと思ったところでブラックアウトした。最後に「ごいん!」って音が聞こえた。
 目が覚めると朝だった。なぜかベッドの中にいた。
 のっそりと起きあがって周りを見回すと、部屋には私以外誰もいなかった。
 昨日着ていた服のままで寝ちゃったらしい。ヘッドボードに置いてある時計をみたら、6時前だった。こっちのは24時間表示の電波時計だから、朝だ。
 しんと静まりかえった部屋の中は、火の気がないことも相まって、やたらと寒さが身に染みた。
 ……ああ、そろそろ冬だもんなぁ。
 そんなことをぼんやりと考えた。
 
 はて、今日は何曜日だったけ。
 
 そこまで考えて、はたと昨夜のことを思い出す。
 そうだ、蓉子は? 昨日は土曜日じゃなかったか? 蓉子が来なくて、来なくて、来なくて……。
 ベッドから跳ね起きて、ドタバタと炊事場の方に行く。何もかもがきれいに片付けられてて、確かに誰かが昨夜来たことを物語っていた。
 この部屋に来るのはたったひとり、蓉子しかいない。確かに蓉子は来たのだ。私にあったかいおにぎりと味噌汁を作ってくれて。それから、それから、それから……。
 勢い余って何を口走ったか思い出して、それに対して蓉子から何言われたかも思い出して。
 ……自己嫌悪。……だー……。
 
 ああ、もうこの世から消えてしまいたい。
 水野蓉子と付き合う気なんてさらさらないのに。なにをトチ狂ってあんなコトを口走ったのか?
 あとの祭りとはこういうコトを指す。どんどんひゃらら~どんひゃらら~。
 そこまで道化てふと思う。そもそも、なぜに水野蓉子と付き合う気がなくなったのだろう、自分は。
 シンクの前に尻はつけずにしゃがみ込んで、つらつら考える。記憶に靄(もや)がかかって思い出せない。どこかに、どこかに要因があったハズなんだけど。
 
 ――令に負けず劣らずヘタれよね。
 
 なぜか、江利子の顔が浮かぶ。うるさい。どっかいけ。でこちん。
 ……いやいや、悪態をついている場合なんかではなくて――……って、何かイヤな記憶が蘇(よみがえ)ってきたぞ。
 栞が私の前から去ったあと、かなり経ってからふと気がついた。
 ――蓉子が好きかも。
 高等部を卒業するまではなんとも思っていなかったのに、だ。
 でも、私はリリアンに残って、蓉子は他大学に出て行った。それは当たり前のことだと思っていたのに、ふと視界の中に蓉子を捜している自分に気がつく。
 振り返ると蓉子がそこにいるのが当たり前だったのに、今は違うのだと容赦なく気づかされたあの日に。
 私は、ふと思う。
 ――蓉子が好きかも。
 しかし、カモはカモなのだ。断定形でもアヒルでもないのだ。
 確かに蓉子は何かにつけて私にかまってくれるけど、蓉子はフツーの女の子で。たぶん、普通の女の子で。
 ――――。
 ああ、思いだした。自分の気持ちを封印しちゃった時に、でこちん江利子から言われたんだ。「ヘタれよね」って。
 怖かったんだもん、しゃーないじゃん。
「友達でいい」「親友でいい」、って思っちゃったんだもん。
 せめて蓉子に彼氏ができるくらいまでは、って思っちゃったんだもん。

 しょーがないさ。

 ……あ、泣きそう。つか、泣いて良いですか?
 よろり、と立ち上がって、冷蔵庫の中を覗く。何か食べないと、また弱ってしまう。
 今日は日曜日で、今日は蓉子はたぶん来ない。いつもそうだから。土曜の夜に帰ったら、日曜には来ないから。
 トースターに冷凍庫から取り出した食パンを放り込んで、インスタントのコーヒーを入れる。パンは近所のパン屋で蓉子が買ってきてくれた物、コーヒーは自分で買ったモノ。パンは焼きたて1斤220円、コーヒーはワゴンセールで売ってた見切り品。
 なんだかこの差が、蓉子と自分の関係を反映しているようで、ちょっともの悲しかったけど、腹が減っては戦(いくさ)はできぬ。いつもよりかなり早い朝食を食べて、それからまたベッドに潜り込んだ。
 寝よう。こういうときは寝るに限る。
 戦(いくさ)に行く前に敵前逃亡しちゃってるじゃねーか、なんて愛のないツッコミは、ココでしてはイケナイ。
 ごとごと。
 ごとごと。
 ごとごと。
 聞き慣れない物音で目が覚めた。
 眉間に重いモノが張り付いていて目が開かない。半眼のまま音のする方に視線を投げる。
「あら、起きた?」
 視界がぼやけてよく見えなかったけど、その声はまさに水野蓉子の声だった。玄関先で赤くて四角いっぽいなにかとごそごそやっている。
「…………えっとぉ……」
「なぁに? まだ寝トボケているの?」
 蓉子は苦笑しながらベッドの方に近づいてくる。
「いや、その……なに、してるんですか? よーこさん」
 どんどん視界を占領してくる蓉子の姿に、私はどうしていいか分からなくなって、おもいきりしかめっ面を作った。
「何……って、引っ越しよ」
「は? ……ひっこ?」
「引っ越し。……と言っても、暫定だから荷物はちょこっとだけどね」
「暫定……」
 蓉子の言葉の意味を掴みかねていると、本人が私を覗き込んできて苦笑した。
「引っ越すのでしょう? 遠くない未来に。仕事もちゃんと探して」
 あー、昨夜そんなことも口走りましたかねぇ……。
「だから、この部屋で寝るくらいの荷物を、ね」
 いや、『ね。』って言われましても。
 えーと、たぶん今、私すんげー間抜けな顔になってる。
「……本とか、仕事で使う資料とか、たくさんあったじゃない。それ、使うとき、わざわざ実家に帰るの?」
 平気な顔してやりそうで怖いけどな、この人は。……とは思ったけど、とりあえず訊いてみる。寝るくらいの荷物ってことは、他はないってコトだから。それならば、あの赤いのは布団袋ってことか。
 ところが、蓉子の答えはちょっと違っていた。
「いいえ」
「……じゃ、この部屋に入れるの? 入らないよ、たぶん」
 たぶんじゃなくて、絶対に入りませんって。8畳のワンルームなんだから。
「そうじゃなくて……」
 蓉子はさらに苦笑する。私は蓉子が言いたいことがまったく見えなくて困惑する。
「あなた、興味なさそうにして聞いていなかったものね」
「は? ……何を?」
「私も、このアパートに入居しているのよ。……1年ほど前に」
「は? ………はぁ!?」
 つまり、私の目の前にいる水野蓉子は、少なくともこの1年、文字通り目と鼻の先に住んでいながら、土曜はココに現れ 日曜は部屋に帰るという行動を繰り返していたということだ。1年約52回。飽きることなく私に気づかれることもなく。途中、平日に様子を見に来るという欲求があったかもしれないのに。
 なんという忍耐力。なんというねばり強さ。なんという……。
「そういうワケだから、今日から改めてよろしくね」
 蓉子が笑う。まるで大輪の花が咲くような笑みをほころばせて。
 それから軽い足取りで、自分の部屋から運んできたらしい、たぶん布団袋入りの布団一式のところに戻っていく。それはまるでお花畑の上を舞い飛ぶ、蝶々(チョウチョ)のように見えた。
 ぱくぱくぱく……。
 いやいや。ボけている場合じゃない。
 これからは、いつでも蓉子のあったかいご飯が食べられるってことだ。
 …………。
 なんか嬉しい。すんごく嬉しい。
 
 この先どんな関係に落ち着くのか、それはマリア様の知るのみぞってか。
 ずいぶん回り道しちゃったよーな気もするけど、まぁ一歩前進したってことで。
「蓉子、手伝うよ!」
 私はベッドから飛び降りて、玄関先で赤い四角の布袋と格闘している、蓉子の元に駆け寄った。
 新しい関係が、ここから始まる。
 さぁ、未来へ行こう!
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