へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

ラヴェンダー フラグ付き作品・使用上の注意をよく読んでご利用下さい

ラヴェンダー 本文

 私たちが北の大地にやってきたのは、秋も深まりつつあるとある日に発せられた、同居人・佐藤聖の一言からだった。
 いわく
「ねー蓉子、北海道にいかない? 格安の物件があるんだけど」
『ラヴェンダー』
 来年には社会人になる私たちは、お互いに大学院での修士論文もめどがつき、就職活動も無事に適当なところ見つけて、なんとなーく気がゆるんできているところだった。
 特に聖は、夏の長期休暇中(といっても、院生にそんな悠長なモノはない)に自分の父親の会社に就職すると決め、すでに研修期間と称しては、新しい事業を始める準備を手伝ったりしている。もっとも、すぐに重要な仕事を任されているわけではなく、先輩社員へのお茶・おやつの給仕とか、コピー取りとか、ダイレクトメールの宛名書きとか。そしてたまに英文でやってくるメールや手紙の翻訳・返信翻訳などなど、そんなことをやっているということだった。
「まぁいわゆる新入社員OLのやる仕事だわよね。……もっとも、『つぼみ《ブウトゥン》時代』以前って感じだけど?」
 そう笑って言う聖の仕事の一つに、情報収集のために会社で取っている各種新聞を整理することも含まれていて、昨日整理した一昨日《おととい》の新聞に、その『格安物件』とやらの広告が載っていた、とのことだった。
 私たちは、お互いに額をつき合わせるようにして、持って帰ってきた(ちゃんと社長には許可を取っているということだから、横領ではない)その新聞をのぞき込む。
  『とびっきりの道央・温泉満喫コース』3泊4日、一部食事付きで28800円(税込み)也。
 にまんはっせん はっぴゃくえん、かっこぜいこみ。確かに格安すぎる物件だ。
 私は思わずつぶやいた。
「就職したら、旅行も気楽に行けなくなるわよね」
 鶴の一声のようなものだった。旅行の話はトントン拍子に進んでいく。
「しっかしまぁ、初めて見たとき思ったんだけどね、この旅行代金って、往復の飛行機代金も出てないんじゃない?」
 聖が半ば呆れたような声を出す。確かにその通りだと思われた。
「んで、聞いた話なんだけどさー」
 聖が旅行日程の一覧を指さしながら言う。
「この時期って、あっちはシーズンオフらしいんだよね」
「つまりは旅行者が少ないってワケね」「赤字でもいいから、人を呼びたいってところなのかなぁ?」「しかしどういうことをしたらこんなに安く設定できるのかしら?」「なにか裏があるんでしょ」「そうねぇ。現地と旅行会社。何かは分からないけど、利害が一致してるのは間違いなさそうよね」「ああ、大人の事情、ってやつですか」
 そんなことをつらつらと。私たちは勝手な憶測を交えながら話を進める。
 しかし大人の事情はどうであれ、安いことは良いことでないですか?
 宿泊予定の旅館やホテルも、調べてみれば決して悪いところではない。それどころか温泉なんかもちゃんと完備されていたりして(「そうじゃないと『温泉満喫』とは言わないでしょ?」と聖は笑った)、やっぱり安いことは良いことだ、と結論する。
 そして、その日中に私たちは旅行会社に電話をかけて、北海道行きをとっとと決めた。
 さてもさても。
 私たちとそのほか、総勢300名近くの旅行者たちを乗せた大型旅客機は、無事にH空港へと降り立った。さすが超格安ツアー。飛行機はほぼ貸し切り状態だった。
 さてこのツアー、あまりの盛況ぶりに参加者枠を大きく広げてもまだ、あぶれる人がいたらしい。申し込んだ数日後、旅行会社から出発日の第2・第3希望を問い合わせる連絡があったりもした。いわく「最初のご希望に添えない場合がございますので、なにとぞご理解ください」と。そんな中、予定通りの日程で出発できた私たちは運がいい。
 しかし周りはものの見事に熟年・壮年の方々ばかり。大多数のご婦人方と多数のご夫婦連れ、少数の紳士たちの中に、どうみても学生風の私たちふたりはものすごく目立つ。
 実際には20代OLのグループとかいないわけではないのだけれど、なにせ相方が、しかし聖に言わせると私が、まぁつまりはお互いに、なにやら目立つ容姿をしているものだから、聖が目当ての小母《おば》さま方とか、私に無駄に相好《そうごう》を崩している小父《おじ》さまとか、そんな人たちにやたらと声をかけられる。
「学生さん?」「ええそうです(ちょっとトウが立ってますケド)」「あら学校は?」「ちょうど試験休みなので(微ウソ)」「お友達と旅行?」「ええそうです(実は恋人なんだけどネ)。卒業旅行をかねて」「あらいいわねぇ」「じゃぁ来年就職なんだね。僕の会社にくるかい?」「いえ、おかげさまで、すでに決まってますので(下心見え見えだから、その顔)」「それは残念。君だったらそんなことはないと思うけど、もし内定を消されたり気が変わるようなことがあったら、連絡しなさい。これ僕の名刺ね」「ありがとうございます。もしもの時はそうさせていただきます(ヤなこった)」「いいわねぇ、若いって」「いえいえ。小母様方もじゅうぶんお若いですよ。まだまだこれからが青春って感じ(あー、そろそろ解放してくんないかなー)」「あらごちそうさま。これ差し上げるわ。飛行機の中でお食べなさい」等々々……。なかなか疲れる。ちなみに聖が内心思っていたであろうことも補足してみたが、これは単に予想。でも顔にしっかりと書いてあったから、私はバレないかと冷や冷やしていた。こういうのが疲れをさらに助長するワケだが、それはさておき。
 H空港に着いて、自分たちが乗るべきバスの席に座ったとき、羽田を出発したときには存在しなかった手荷物が増えていた。酢昆布やカリカリ梅、ちょっと青いミカンとか個包装の飴やチョコレートやガム、キャラメル。果てはホット・ウーロン茶のペットボトルまでが、聖の手に提げられた小さくもないコンビニ袋にみっしり詰まっている。ちなみにコンビニ袋ももらい物だ。
 自分たちがお互いに空港で買ったものは、ミント系のタブレット1ケース。片やブラック・ミント、片やラズベリー・ミントだったのに。どんな魔法が使われたやら。これはこれは摩訶不思議。
 空港から各地へはバスで行く。コースは2つで外回りと内回りという感じ。なのでメンバーは大きく2つに分けられて、さらに小さくバス単位に分けられる。バス1台につき約30名が乗る。最終的に飛行機に乗っていた全員が合流するのは、最終日の県庁所在地のみなのだそうだ。
 観光客をみっちり乗せた大型バスが、大名行列のごとくに、広いまっすぐな道を走っていく。その様子が見られたら、きっと長い貨物列車が走っていくさまを想像できるかもしれない。
 バスに揺られはじめて約30分、窓の外には、地平線が見えるんじゃぁないかと錯覚させる風景が広がっている。すでに北の大地は真冬に突入しているようで、あいにくな天気も手伝って、色彩が抜け落ちた世界が広がっていた。
 このまま異次元に迷い込んでも、誰も気がつかないんじゃないだろうか。そんなことをふと思わせる窓の外。
 やっとこさ身の回りが落ち着いてきたところで、聖の、やれやれというような大きなため息が聞こえてきた。
「実はさー、蓉子に言っとかないといけないことがあるんだよねー」
 私は窓の外に向けていた視線を戻して、聖を見る。すると聖越しに、通路を挟んで向こうのふたりがけに座っている小母さまたちが小さく手を振って、切ったネーブルを入れたプラスチック容器を差し出しているのが見えた。
 聖をうながして、小母さまたちから楊枝に刺したネーブルを二ついただく。聖が持ち前の口の軽さでお礼を言うと、小さいけれど黄色い声が上った。
 私はお礼の会釈をしながら、小母様たちからあふれ出る無数のハートマークを見たような気がした。さすがご婦人キラー・佐藤聖。ちょっと妬けたから少し意地悪をしようか。
 いただいたネーブルを口に入れながら、ちょっぴりそんなことを考える。そして聖が話のつづきを始める前に口を開いた。
「実はね、私も言っておかなくちゃいけないことがあったりするよのね」
 スマイルカットに切られたネーブルは、ご丁寧に皮が実に添って半分ほどが外してあり、とても食べやすかった。口の中に広がる甘酸っぱさと香りが体中にも広がった気がして、気持ちがいい。
 私と同じように、もひゃもひゃウマウマとネーブルを食べていた聖が、「えー? マジー?」といぶかしんだようなうんざりしたような表情《かお》でこちらを見る。私が喋ろうとしている内容が、半分くらいは予想がついている。そんな顔をしている。しかしここはそんな顔は見なかったってことで、完全にスルー。これは私の常套手段。
 そしてさらりと聖に話を続きをうながした。
「……で? なんなのかしら。あなたの話は?」
 ちょっと響きが冷たかったかも。
 聖が、すべてを諦めたような顔をして肩をがっくりと落とす。いままでさんざんやられているから、逆らっても仕方ないって知っているのだ。肝心なのは、日頃からのしつけです。
 聖は、いつも持ち歩いている帆布地《はんぷじ》の雑嚢《ざつのう》のようなカバンから、横長の白い洋封筒を取り出した。
「両親から預かってきた……ていうか押しつけられたんだけど、モノがモノだから蓉子に預けとこうかなって思ってさー」
 半分困ったような顔をしながら、手にしたモノを自分の頬の高さでひらひらさせている。厚くはないが、決して薄くもないその白い洋封筒。
 あ、なんとなく嫌な予感。
 思わず一瞬、目が見開く。眉根がぎゅ、と寄るのが自分でも分かってしまう。きっとすごくいぶかしんだ顔になってる。絶対に。
「それは……」
 まさか、と私の声が発せられる前に、聖の、うんざりを全身で表現した声が聞こえてきた。
「お餞別ー……だって」
 やっぱり、と私は軽くため息をつく。そしてよく持ち歩いているトートバッグからやや大ぶりの白い和封筒を取り出して、肩の高さに持ち上げた。聖が持っている封筒と同じく、厚くはないけど決して薄くもないそれを。
 聖は封筒を持った方とは反対の手で私が持っている封筒を指さしながら、さきほどの私と同じようなセリフを言った。
「そ、それはもしかして……」
「そ。あなたと同じよ、お餞別。……それも、新婚旅行の……だって」
 どこまで理解がありすぎるのかしらね、と小さくつぶやいた。もうため息しか出ない。
 あらかじめ答えを予想していただろうに、聖は飲み込みかけていたネーブルをのどに詰まらせた。『新婚旅行』の破壊力はなかなかに大きかったらしい。しかし吹き出さなかっただけ優秀優秀。もし吹き出していたら、間違いなく私に直撃していただろうから。
 吹き出せず、だからといって飲み込めずで、聖は目を白黒させている。私はあわてず騒がず手際よく、トートバッグから取り出したハンカチを差し出す。向こうの席の小母さまたちのほうが聖の様子にびっくりして、「あらあら大丈夫? そんなにあわてて食べなくてもいいのよ」と一人が身を乗り出して聖の背中をさすってやり、もう一人が手持ちの小さなステンレス水筒から、それのフタに中身を注いでくれる。私は差し出された飲み物を、手を伸ばして受け取り、聖に渡した。
 ハンカチで口を押さえつつなんとか窮地を脱した聖は、差し出された飲み物を素直に受け取って、まるでウオッカでもあおるように豪快に飲み干した。容姿のせいか、なんだかその動作がやたら様《さま》になる。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」「いやいやホント。小母さま方の機転がなかったら、私きっとこのバスの中で窒息死してたかもしれませんよ。命の恩人です」「え? ……いえいえ、助けていただいた上にまた頂くなんて、申し訳ないです。あまりに美味しくて、うっかりのどに詰めてしまうなんて、お恥ずかしい限りで」「ああ、ではお言葉に甘えて。はい。……はい。本当にありがとうございます。頂きます」
 ……。
 『口から出任せの聖』である。水筒のふたを返しながらうまく誤魔化したうえに、さらにネーブルを二切れ頂いてしまうとは。私はかなり恐縮して、聖の向こうでにこやかに愛想を振りまいている小母さまたちに、お礼の意味も込めて二度目の会釈をした。
 窮地に陥ったフランス軍を助けたジャンヌ・ダルクよろしく活躍したふたりの小母さまたちは、王子からねぎらいの言葉をかけられて大いに満足しているようだ。いや、どっちかというとお気に入りの芸能人に声をかけられて舞い上がっているというほうが近いか。やっぱり無数のハートマークが小母さまたちの周りを飛び交っているのが見えるような気がする。しかしこんなのにいちいち気をとがらせていたら身が持たないので、こういうのはスルーアウト、スルーアウト。
 私は二切れめのネーブルを聖から受け取ってから、改めてシートに座り直し、中断された話題を再開した。
「あまりに理解がありすぎると、どう反応していいか時々分からなくなるわよね」
 あきれてモノも言えないとはこういうことだ、と重ねて言うと、聖がしみじみ言った。
「思うんだけどさー、蓉子って間違いなくご両親の子供だよねぇ」
「んー?」
「それって絶対に蓉子の反応を見て面白がっているんだと思うけどなー」
「そうかしら?」
「たぶんね。そうだと思うー。まぁわかんないなら、いいやー」
 聖はそう言って、私からつい…と目をそらす。見ているのは私の向こうに流れている、車窓の景色だ。
「なによ、それ?」と私は小さく抗議の声を上げたが、聖の耳には届いていないようだった。しばし沈黙が流れる。
 私たちの間で沈黙は珍しいことではないけど、今はあまりいい雰囲気とは言えない。なんとも形容しがたい「もや~っ」とした空気が私たちの間にただよっている。ああもう。この間の居心地が悪い。私たちはどちらともなく微妙~~~な面持ちでお互いの視線を絡め合った。
 ふたりの学生時代最後(になると思われる)のお気楽旅行は、お互いの両親の過度な了解(?)と多大な誤解(!)によって、今まさに新婚旅行という名にすり替わろうとしている。もしかして両親同士が結託しているんじゃないだろうか。そんな不毛なことを思ってしまいたくなるほどタイミングがいいのがちょっと、……いや、かなり気になる。
 というか、おとーさまおかーさま。ホントにそれでいいと思っているんですか? 水野家も佐藤家も私たちの代で終わろうとしてますよ。それ以前に世間体ってヤツをどうお考えですか? ……って、ああ、子供たちの方がそういうのを気にするというこの状態はかなりおかしいと思う。たぶんあの人たちに何を言っても通用しないだろうけど。
 私たちのこの関係に対して、家族の理解がそれなりにあって障害が少ないのはとても結構な話だけど、障害がまったくない(ように当事者たちが感じる)のは、どうにも居心地が悪い。「いいのか?」「いいのか?」「本当にそれでいいのか?」とついつい確認したくなる。まったく、人間はつくづく贅沢な生き物だ。
 そんなことを考えているであろうことを、私たちはお互いにお互いの視線から読み取って大きなため息をつき、がっくりと肩を落とした。なんだかどっと疲れが出た。
 お互いに手に持った封筒を自分のカバンに戻す。封筒の中身の一部はお互いに、両方の両親へのおみやげ代に消えていき、残りの大半はお互いの銀行口座にたどり着くであろうことを確信しながら。
 そんな私たちの思惑と困惑と精神的疲労はまったく加味されず、観光バスは北の大地を脳天気に駆け抜けていく。このバスに乗った乗客たちのホスト役であり責任者でもある添乗員さんが所定の席から立ち上がり、最初の目的地が近づいてきたことを告げた。
 最初の目的地はいきなり土産物店だった。バスから降ろされた観光客たちは、流れ作業のベルトコンベアに乗せられて工場の中に運ばれていくミカンやジャガイモのごとく、土産物屋の中に吸い込まれていく。私たちもその流れに逆らえずに店の中に入っていく。その店は、ウニとかカニとかスルメとか昆布とかシシャモとか、とにかく海産物がこれでもかこれでもかと種類も量も取りそろえてある店だった。
 こんなに早い時期に土産物屋に寄ってどうするのかととまどっていると、私たちの周りにいるご年配の方々は、ほかのことにはまったく目もくれず、お土産まっしぐらでいろいろ買い込んでいるのが目に入る。なるほど、同行のみなさまはこういった旅行に慣れていらっしゃる人たちだらけのようだ。目をぎらつかせながら海産物を物色している人のうねりを見渡してみると、私たちよりも少し年上のOLグループも同じように土産物を物色しているのが、小母さま達の波(ウエーブ)の向こうにちらりと見えた。彼女らもこういった旅行によく参加するのだろうか。
「スルメとか昆布はともかくさー、今から生モノなんか買って、どうするのかね?」
 聖があきれたように、至極当然な疑問をつぶやいた。しかしそれはいらぬ心配というものらしい。大勢の待ち客で長蛇の列ができているレジの隣にはしっかりと、冷凍や冷蔵の宅配便を発送するカウンターが、自分の出番を今か今かと、係員の人とやる気満々、会計が終わった客たちを待ちかまえているのだった。
「……なるほどね」
 私はおもわずつぶやいた。
「なに?」
「観光地巡りもさることながら、このツアーで一番大事なことは、私たちツアー客を、こういった土産物店に連れて行くことらしいわね」
 ここまで言うと、聖もこの激安ツアーのからくりが見えてきたらしい。胸の前で腕を組み、私にしか聞こえないくらいのボリュームで、あきれたようにつぶやいた。
「なるほどねぇ。需要と供給……ってヤツですか」
「たぶんね」
 ホントのところはどうだか知らない。なにせ『大人の事情』ってヤツだろうから。しかしH空港前でバスに乗った時に渡された「旅のしおり」書いてある細かなスケジュール表には、『特産品●●のお買い物』とか『●●の味覚をおみやげにどうぞ』とかの文字がやたら並んでいたような気がする。このあたりの真相は、10数分後にバスに戻ったときに確認すればいいとして、とりあえずは目先のことを消化しなくてはならないだろう。
「……で、どうする? ここでとりあえず、おみやげを買う?」
 と、聖に訊いてみる。すさまじい勢いで買い物をする観光客たちを、たぶん間抜けな顔をして見ていた者同士で顔を見合わせる。それからまた目の前で繰り広げられる喧噪に視線を移す。ため息が出た。それも二つ同時に。
「うーん……。まだ先は長いし、量をこなさないといけないわけでもないから、もう少し回ってからにするわ」
「そうね。わざわざ今日じゃなくても、明日も明後日もあるわよね」
 なんだろう。おばちゃんおじちゃんパワーに圧倒されて、戦意喪失しちゃったっていうのが正直な話。それでも一番最初に連れてこられた場所なので、旅行会社に敬意を表して、ひととおりり土産物は見て回ることにした。
 ……買う方もすさまじかったけど、売るほうはさらに強敵だった。もー、レベル3くらいで町のすぐそばをウロウロしていたらいきなり中ボスに会ってしまった。……そんな感じで。
 出発時間がやって来てやっとこさバスに戻ったときには、私たちはすでに1日のエネルギーを使い果たしたかと思うくらい、精神的に疲れ果てていた。
 なんだか先が思いやられる。
 そんな私たちを超無視して、ツアーは元気に続行されるのだった。
 バスはところどころで観光地や土産物店に立ち寄りながら、北の大地を列なして1日中走り続ける。さすがに2度続けてあからさまな土産物屋に立ち寄ったりはせず、北海道なら1度くらいはその名前を聞いたことがある観光地とか、まったく知らないけどちょっとした穴場的な観光地とかを、大小さまざまな土産物屋付きでぐるぐると回っていく。私たちがこの過酷なツアーを乗り切れたのは、実は添乗員さんの力による部分が大きい、と特記しておこう。
 というわけで、添乗員さんの話をちょっと。
 私たちのバスの添乗員さんは、なかなかに豪快系の小母さま(どちらかというと「おばちゃん」系)だった。バスがH空港を出発してすぐ、添乗員さんが挨拶と旅行ガイダンスを始めたとき、「格安ツアーにはこのあたりにも影響があるのか?」と聖がとても失礼なことを口の中でつぶやいたのが聞こえてしまったが、実はそうではなかった。
 基本的に旅行のガイダンスなんて退屈なものと相場が決まっているが、この添乗員さんの話はまるで軽妙な落語を聞いているような錯覚を起こすほどの絶妙さでおもしろい。アナウンス中は眠気なんてどこかに吹き飛んでいってしまって、感心したりおなかがよじれるほど笑い転げたりしどおしだった。
 あとでご本人に訊いてみると、今は上の役職に就いているので現場はほぼ引退しているけれども、『バスガイドおよび添乗員歴20数年(産休含む)』という超ベテランの添乗員さんだったことが判明した。
 様々な要因がからんでテンションがやや下がった上に、長距離移動を余儀なくされる道中でちょっと退屈してしまうんじゃないかと危惧されたバスツアーは、超ベテラン添乗員さんという嬉しいフェイントで大いに盛り上がった。
 旅はこうでなくちゃおもしろくない。頭の中をすっかり切り換えて、俄然楽しむ方向で私たちは意気投合する。
 旅行程のスケジュール表をすみからすみまで精査する。こういう作業は高等部時代から今現在にいたるまで、私たちのもっとも得意とする作業だ。なにをするにもまず書類に目を通すところから仕事は始まるのだから。
 次に取り出したのは、事前に“予習”のために買っておいた、現地の観光案内雑誌と地図。出発前に貼り付けておいた付箋《ふせん》が威力を発揮する。付箋にはインデックス(目的地)まで記してあるから、検索には困らない。
 書類よーし!、資料よーし!、下調べ万端っっ!
 目的地が近づいてきたらふたりで目をぎらぎらさせながら、車窓の外になにかおもしろいモノはないかと、目をこらすのだ。
 そののちの私たちは、目的地に着くたびにバスを最後に降りて、ほかのツアー客とはまったく反対の方向に行動する“変な若い学生ふたり連れ”になった。
 土産を買う人数も量もほんの少しだし、それも最終日で充分。途中よほどのものがあれば買うかもしれないけれども。その上150人近い人数が入って芋を洗うがごとく混んでいる土産物屋で、なにかを物色したところで時間のロスにしかならない。それならば人が少ないこのタイミングで、思う存分北の大地を堪能するのが得策ではないか?……というわけだ。
 東京とは違う、吸い込むと肺まで凍りついてしまいそうな張りのある空気を、それでもいいやと体中に満たして伸びをしたり、自分たちの身長よりも大きな直径の白い丸い物体——あとで訊けば中身は牧草ということだった。つまりは牧草ロールというわけだ——のそばまで行ってお互いに携帯電話で写真を撮ったり、ホタテ貝の殻や甜菜《ビート》の山に感嘆の声を上げてやっぱり写真を撮ったり。そんなことを思う存分楽しんでから、人の少なくなった土産物屋を覗《のぞ》いて冷やかしてまわった。その頃にはこちらもレベル10くらいにはなっていたから、中ボスが出現しても簡単には負けない。
 もちろん、ご当地ソフトクリームだとかご当地饅頭だとか焼き餅だとかトウモロコシやジャガイモまで、ちょこっと買ってその場で食べられるものは、しっかりちゃっかりおなかの許すまで食べて回るのは忘れない。これこそ旅の醍醐味なのだから、堪能しなけりゃ大損でしょう?。
 さてさて、北海道の夜は早い。
 午後3時半くらいにはすでに夕方だった。暗くては観光地の良さも半減するし、なにより場所によっては危険なので、私たちが思っているよりもかなり早い時間に、バスは最後の目的地である本日の旅館へと向かって走っている。
 周りのツアー客もさすがにほとんどの人が疲れているとみえて、昼間のような喧噪は鳴りをひそめている。通路を挟んで隣の席の小母さまたちも、シートを倒し気味にしてつかの間の眠りに落ちているようだった。添乗員さんの絶妙トークもない。バスの中だとそれが走っている音もほとんど聞こえない。そのかわり、書類をめくる時特有の乾いた小さな音が、前方の方からときおりハラリ…ハラリ…と聞こえてきていた。なるほど、添乗員さんが今から以降のスケジュールなどを確認しているのだろう。
「紙のめくる音って、なんだか眠たくなるよねぇ」
 聖が、縦半分に折った、旅程が記されたプリントを口に軽く当て、ぷわ、とあくびを漏らした。
「そぉ? それはあなただけじゃない?」
 高等部時代を思い出して「ふふ…」とかすかに笑いが漏れる。
「ちぇー。よーこさんはいつも『めくってるほう』だったもんねぇ」
 聖が口をとがらせる。
「そうね、あなたはそれを聞きながら、居眠りするほうだったものね」
 すねる聖をなだめるように、私は右手で、すぐ横にある聖の左手に指をからませた。
 『絶対に』と枕詞をつけてもいいほど、他人がいるところではやらないその行動に聖は驚いて、眠さでくっつきそうになっていた目を見開く。小首をかしげ、私を下から伺《うかが》うように見つめてくる。
 目が合う。
 その様子が「このくらいだったら、許す? 許す?」と飼い主を覗き込んでいる猫のようで、なんだかとても可笑しい。私は思わず目を細めて聖に笑いかけ、そして、からませた指にきゅ、と力を入れた。
 聖の色素の薄い瞳が、どうしていいか分からないというように、落ち着きなく動いた。
「少し、お眠りなさいな。いつもだったらお夕寝してる時間でしょう?」
「……う……うん」
 大学院に入ってからの聖の習慣。これといった講義やゼミ、行事や予定がないときは、1~2時間、ちょうどこの時間くらいに眠るのだ。
 私は左の手首を返して時計を見た。
「宿泊地に着くまで、あと1時間ちょっとあるみたいだから。着くころには起こしてあげる」
 そう言うと、聖がはにかんだような、困ったような表情で、自分の頭頂部の髪をがしがしとかき回した。
「……そろそろ、この習慣もやめにしないといけないなーって思っているんだけどね」
「そうね。じゃないと、来年の春から困るわよ。いくらお父様の会社だと言ってもね。……でも、今はいいから、お眠りなさい」
「……じゃ、お言葉に甘えて」
 聖はシートに深く座りなおし、ちらりとこちらを見、そしてちょっと名残惜しそうに視線を戻した。『お休みのキスは?』とかなんとかうっかり言いそうになったのかもしれない。残念だけど、私からのサービスはここまで。そしてそれを聖は、きっと理解している。大変正しい。
 聖はシートを少しだけ後ろに倒してヘッドレストに自分の頭をゆだねると、子供がお風呂で数をみっつ数えるほどの間もなく眠りに落ちた。すーっと静かな寝息を立て始める。
 そして、お夕寝をうながした私もまた、聖の規則正しい吐息が聞こえ始めてから3分も経たないうちに、あらがえないほどの睡魔に襲われる。まず地図を持つ手が重力に逆らえなくなり、そしてすぐに自分の頭も聖の肩の方角に落っこちていった。
 私たちの目が覚めたのは、本日最後の目的地、宿泊所であるホテルに着く10分ほど前だった。起きたというより「起こされた」が正解。添乗員さんは、絶妙なタイミングで車内アナウンスを始めて、乗客のみんなを安らかな眠りから現実の世界へとスムーズに引き戻してくれた。各々おのが座ったシートの上で伸びをして、頭にかかったもやを振り払う。その間にも添乗員さんは手際(?)よくこれからのスケジュールをアナウンスし、それがちょうど終わる頃、バスは旅館にほど近い降車場に滑り込んだ。
 部屋は予定通りにふたり部屋。簡単に荷物をほどいてまずはひとっ風呂。
「温泉だもんね~。やーっぱまずはお風呂でしょ?」
 聖は上機嫌で浴衣に着替えて、スキップしながら大浴場に向かう。私もタオルやその他もろもろを抱えて聖を追いかける。昼間にバスで一緒だった小母さまたちも一緒になって、まずは裸のおつきあい。
 そして大広間で夕食。山の中だというのになぜか海鮮が山盛り摩訶不思議。しかし旅先ともなれば、これがまたなんだか美味しい気がするからさらに摩訶不思議。
「つまりは、脳みそがどれだけ騙されやすいか、という証左だと思うわ」
 私はそんなことをつぶやきながら、それでも上機嫌でニコニコと、美味しくすべてを平らげた。これもこれも摩訶不思議。
「とにかく。……旅っていうものは、いろいろイイモノだと、私は思うんだな、うん」
 食事のあと、再び大浴場で2度目の温泉につかりながら、聖は湯船の縁石を手のひらでピタピタ叩いてそう結論づけた。
 そして迎える第一夜。さて、ここからが本番なのです。
 二つ並べた布団。
 私はその右側の布団の上に横座りになって、枕元に今日行った各地の地図とか現地でもらってきたパンフレットとかを広げて、旅の余韻を楽しんでいた。
 その対岸、つまり左側の布団の上で、聖は私に対して正面を向き、正座した。
「……というわけで、よーこさん」
 顔と声がやたらと真剣。こういう時の聖は、たいがいロクでもない。
「嫌よ。なに考えているのよ」
「よっこと同じことー」
「あらそう、じゃ、おやすみなさい」
 私はとっとと掛け布団をめくって布団の中に入る支度をする。
「いや、待って待って待って」
 聖はあわてて、こちらの布団のほうににじり寄った。私が今まさに自分にかけようとしている掛け布団の、めくれた端をがしっ! と押さえる。私がこれ以上布団に入れないよう阻止しているつもりなのだろう。
「聖。いくらふたり部屋だといっても、壁の向こうの両隣には、同じバスの人たちがいるのよ。バカなことを考えないで」
 自分の眉根に力を入れて、「不快です」と意思表示する。というか、本気で不快なんですけど。
 聖にとってはかなりの危険信号のはず。でも佐藤聖はひるまなかった。
「大丈夫。だってここ、旅館だもん」
 そうすっぱりと言われてしまったら、いっそ「天晴れ」と相手を評したくなる。
 私が半分呆れて無言でいると、聖は四つんばいになってこちらににじり寄ってきた。にじりっにじりっにじりっ……。
 とりあえず、正論で攻めてみるか。
「だからといって、どこの旅館も防音しているとは限らないのよ?」
「蓉子が声出さなきゃいいんじゃ————」
 ご!
 鉄拳制裁。私は握った右手の小指側を、聖の額に向かって振り下ろした。ものの見事にクリーンヒットする。油断しているほうが悪い。
 叩かれた聖は頭を押さえてその場にうずくまった。
「————」
「たいがいにしてちょうだい。いくらお互いの両親が『新婚旅行』とか言ってお餞別をくれたとしても、私たちがそれに便乗する必要はないのよ」
 額を抑えて身もだえながら、それでも聖は顔を、がばぁっ!と上げた。涙目になっている、かなり痛かったらしい。まぁあれだけきれいに入ったら……ねぇ。
「えー! せっかくなんだから、お言葉に甘えたっていいと思うんだけどー!? 旅行先でのアバンチュールなんて、すごく萌えるシチュエーションじゃないっっ!」
 聖が吠える。両手とも「ぐー」。力一杯握りしめて。一体何がそうさせるのか。
「……『もえる』の発音がなんとなくおかしいわよ、聖。字を間違ってない?」
「そんなことはどーでもいいんですっっ!」
 いきなり覆い被さってきて、私の浴衣の胸をはだける。
 電光石火。ガードする間もありゃしない…………————って……
「えー! なんで浴衣の下にTシャツなんか着てんのさーっっっ!!」
 やれやれである。
 なぜ私たちは北海道に来てまで、日常と同じようなことをしなくてはならないのだろう?
 聖は『おー、まい、がー!!』と叫びそうな大げさな動作のあと、ぷしゅ~~と、空気が抜けたピンクの熊のフロートみたいに腑抜けて、私の横にへたりこんだ。足もお尻もぺったりと布団にくっつけて、手も両膝の間に置いているものだから、なんだか大きなワンコに見える。毛がふさふさした金茶の大型犬。もちろん耳は垂れ耳。これはデフォルト。
 はだけられた浴衣の前をかき合わせながら、私は体を起こした。耳としっぽが垂れきっている大型犬の前に、同じような姿勢で座って、その顔をのぞき込む。
「まったく。……お夕寝したから眠くないんでしょう?」
「…………」
 ワンコはすねきって返事をしない。
「こら、返事して」
 そう言うと今度はプイっとそっぽを向く。
「せーい」
 私は自分の両手で聖の頬を包み込んで、自分のほうに向けた。
 聖の目が伏し目がちに動いて、こちらを見る。聖の瞳に私が映っている。そしてしばしの沈黙ののち、一言。
「ぶー」
 …………。二十歳《ハタチ》をとうに超えた人間の態度ではないわね。
 そうは思ったが口には出さなかった。もしそんなことを今言ったら。さらにこじれるだけだから。
「…………。じゃぁ分かったわ。あなたがよく眠れるように、軽く運動しましょう」
 包んだ手でそのまま聖の頬をむにーっとひっぱる。引っ張られた聖は、それでも言葉の向こうにあるソレを察して上機嫌になった。にょほ、と相好《そうごう》を崩したので、美人が台無しだ。
 引っ張った頬を戻したついでに内側に寄せる。聖の口がタコみたいになる。
 私はそれに軽く口づけて、それから意地悪く笑ってこう宣言した。
「ただし、今日はあなたが、下、だから」
 『下』の単語を思いっきり強調。苦情は受け付けませんが何か?
「ぎゃ……」
 聖の顔がさーっと青くなり、ジタバタと逃げ出そうとする。私はさらに手に力を込めて、聖の動きを封じる。顔を押さえられていては身動きが取れないはず。うかつなことをしようものなら首を痛める。前科があるからか、聖の抵抗は激しくはなかった。
 ああ、なんて楽しい。
「さ、せいぜい声を出さないように、がんばってね」
 勢いつけて、私は聖を押し倒した。
 
 こうして私たちの新婚旅行第1夜ははじまった。
 その後疲労困憊した聖が、次の朝、私にたたき起こされるまで熟睡したことは、言うまでもない。
 かくして、私たちの新婚旅行に化けた格安バスツアーは、2日目(昼の部)も第2夜(夜の部)も3日目(もちろん昼の部)も同じように流れていった。
 夜の部の成績は、私の2勝、聖の2敗。
 これも旅先のなせる技でしょうか、マリア様。
「まぁ、声が出せないほうが、なにかと体力を使っちゃうものね」
 3日目の朝、よろよろと朝食をとりに向かう聖を後ろから眺めながら、そんなことを思った。私自身、2日連続で自分が「勝て」るとは思っていなかったが、それをうっかり聖に言うと、いきなり調子づくので絶対に言わない。
 昼間、バスの中でも聖はおとなしかった。本来の性格のほうが出てきてしまっていて、周りの小母さまたちに振りまく愛想も必要最低限。まぁ周りの人たちもちょっとダレてきているらしく、自分たち以外のことにあまり気を遣わなくなってきていたというのもあったっぽいのだけど。
 それでも夕方、最終目的地である県庁所在地に到着したときは、お夕寝効果もあってか、聖はそれなりに元気を取り戻していた。数日前から始まったという、大通りのイルミネーションが作り出す幻想的な町並みも、かなり早めのクリスマスっぽくて興奮という名のテンションアップ剤になったらしく、元気をさらに加速させたようだった。
 まずは、この地と言ったらの定番であるラーメンに舌鼓を打つ。それから2人で街にくり出す。イルミネーションに彩られた木々や建物が織りなす光の洪水。それを目当てにあふれかえっている人の渦。それらが発する人いきれは寒さも感じさせないほどの熱気となっていて。それらすべてを心ゆくまで、そして終電まで堪能した。
 ホテルに戻ってきた今も、聖は頬を上気させて興奮気味だ。……いや、頬が赤いのは寒さのせいか?
「ということで、よーこさん。私はこれからシャワーを浴びます」
 ホテルの部屋に帰っていきなり、聖はそう宣言して服を脱ぎはじめる。脱いだ服を順番にベッドに放り投げて器用に積み上げると、とっとと浴室に消えていった。
「今日こそは私が上だかんね!」
 ドアの向こうから聖の捨て台詞が聞こえてくる。
 なるほど、一昨日昨日のリベンジをしたいらしい。
 2日続けて苛めてやったから、今日は懲りておとなしく寝てくれるのかとおもいきや、そうは問屋が卸さないらしい。さすが我が恋人。いやいや今回の旅行では新郎あるいは新婦と言うべきか。
「ハネムーン気分は抜けていなかったのね」
 扉の向こうのくぐもったシャワーの音を聞きながら、私はため息まじりで独りごちた。
 まぁ仕方がない。こういったことにやたらとこだわってしつこいのが佐藤聖なのだ。今日もやる気満々ならば、勝負は相手に譲るとしよう。今日も聖が負けたとしたら、帰ってからの暴れっぷり、それも理性の切れた聖に何をされてしまうか、容易に想像できてしまうところが怖い。……ついでに言えば、3日も続けて自分が“上”は、さすがに辛い。抱くのはどちらかというと苦手なのだから。
 なんだか気張った顔の聖が浴室から出てくるのと入れ替わりに、私もまたシャワーを浴びる。
 いきなり押し倒されなかっただけでも、聖にしては上等というべきかもしれない。シャワーを浴びつつ、私はそんなことを考えた。押し倒されたところですんなり事が始まる保証はないどころか、大げんかに発展する可能性のほうが高いのだ。最近の聖はそのあたりを学習したらしく、リスクの高いことをするような真似はあまりしなくなってきた。大人になったのか単に年を取ったのか、そのあたりの真実は定かではないけれど。
 果たして、私がバスローブに身を包んで浴室から出ると、もうひとつのベッドの上で、やはりバスローブ姿の聖があぐらをかきつつコーヒーを飲んでいるのが見えた。
「そこは私が使うベッドのはずだけど?」
 お約束のセリフを口に乗せると、聖がこちらを振り向いて、にや、と目を細める。
「だって、私のベッド、荷物がのっかってるんだもん」
 聖が指さすベッドの上を見ると、なるほど、さきほど放り投げていた聖の衣服の他に、聖が今座っているベッドの上にたたんで置いていたはずの私の衣服がそのままの形できれいに移動させられている。その上、二つの旅行カバンもご丁寧に置かれているとくれば、ベッドは従来の目的には使えない。毎度のことだが、こういうところではやたらと勤勉さを発揮する佐藤聖クオリティには、呆れを通り越して感心の念すらわいてくる。
 私は小さく肩をすくめて小首をかしげた。
 やれやれ。術にはまったフリ・観念したフリをするのも、家庭(?)円満の秘訣なのだ。
 私はバスローブの帯を少しゆるめながら、聖が占領しているベッドの上に膝をついた。
「…………分かったわ。電気、消してちょうだいね」
「やた」
「私はまだいいとは言ってないわよ」
「はいはい~~」
 きっと、今日の夜は、長い。
 闇の中で、今日も熱い吐息が交わされる。3日も連続でなんて、最近のどこにそんな体力があっただろうか。
 そんなことを思う。きっと相手も思っている。
 昨夜がこのポジションなら、もしかしたら今夜は平和な睡眠を得られたのかもしれない。ふとそんなことも思う。しかしそれは後の祭りだし、その保証なんてもちろん、ない。
 どうしてだかわからないが、こうやって抱いたり抱かれたりしている時に、ふとこんな関係ないことを考えてしまう瞬間がある。
 決してこの行為に集中していないということではなく、飽きているということでもない。
 それは唐突にやってくる。
 今考えても仕方がないことが、頭の中にわき上がる。体と思考がまるで二つの意志を持った物の生き物ようだ。いや、もしかしたらそれ以上に分離しているのかもしれない。
 荒い息づかい。吐息。嬌声。汗ばんだ肌と肌とがぶつかり合う音。体の下の方から時折聞こえてくる水音。相手の体温が熱く、シーツにこもる自分の熱が熱い。抗《あらが》えない快楽に絡め取られ押し流されて、聴覚が麻痺する。すべての音、薄く流したBGMですらも、耳の奥に遠く聞こえるばかりだ。
 体の中心から生まれわき上がる感覚が全身を満たして行くと同時に思考がさらに鈍くなり、まるで水の中であえいでいるような錯覚に陥っていく。宙を掻く手もシーツを握る指も、どこかもどかしい。
「蓉……」
 聖の声が遠くで聞こえる。そしてまた、考えても意味のない思考の波にとらわれる。
 抱かれていても抱いていても、同じような感覚に襲われるのは、いつも不思議でならない。理屈では説明しきれない感覚の一つ。いちばん奥深いところにいるのは、手の一部でしかないのに。
 入れられた瞬間は当たり前としても、入れた瞬間に全身を駆けめぐる、あの痺れるような感覚はどこから来るのだろうか。
「せ……い………もっと……」
 熱に浮かされたような声。本当に自分の声なのだろうか。
「蓉子……」
 そして聖の声もまた……。
「ああ……せい……もっ……と……も……っ……」
「蓉……子、……蓉子、蓉子……よ……う……」
 お互いのこの声が聞こえ始めると、ラストまではそんなに遠くはない。私たちは準備をする。お互いを、受け入れて、上りつめるために。
 体が、小刻みに、震え——……
「っっか"…………————った"ーーーーーーーーーーーー!!!!」
 絶叫とともに、聖がその場で硬直した。
「聖!?」
 声と衝撃に驚いて目を開けると、聖が必死の形相で、なにかに耐えていた。自分の体重が私にのしかからないよう自分の体を左腕一本で支えている。絶叫してほとんど間がないというのに、脂汗をかいていた。
「ど、どうした……の?」
 あまりのことに、私も息をのむ。というか、この体勢をどうしたらいい?
「…………足………」
「足?」
「……が、………つっ………」
「つっ……てる? 今?」
「…………うん……痛《い"た"》……い"、カ・モ………」
 聖は息をするのもままならない様子だった。全身から汗が噴き出しているのか、私の上にぽたぽたと汗が落ちてきて、小さな水たまりをいくつも作っているのが、感触で分かるほどだ。
「と、とにかく、抜いてちょうだい。……できる?」
 なんとかしてやりたくても、このままでは何もできない。まずは私を解放してくれないと。
「が……がんばり……ます……」
 私のわずかな上空で、聖が全身でがんばっている気配がする。肌が触れている場所からは、聖が小刻みに震えているその振動が伝わってくる。しかし、本人がどれだけ努力をしようとも、聖は指一本動かすことができないようだった。
「……くっ……はぁ……痛《つう》……」
 よほど痛いのか、聖が息を乱暴に吐き出しながら頭を振ったようだった。聖の髪が私の胸をかすめてなでた。
「……ごめ……蓉……。わ、悪い、ん、だけ……ど、上に、ずれ………て」
 文字通り悲痛な声が私の耳に届く。聖が動けないなら、私が動くしかない。
「……わ、分かったわ」
 小さな深呼吸を一つ。それから私は息を止めて、ゆっくりとベッドの上方に移動する。
「ん……あ……」
 思わず声が漏れた。決してなまめかしい意味ではなく。
 しかし聖はそう取らなかったようだった。
「そんな。……いつも以上に、なま、めかしい声……今あげなく、て……も……」
 泣きそうな声が闇の中から弱々しく聞こえてきた。ごめん、それに今反応してあげらんない。
 なんとか聖の下からも抜け出した私は、サイドテーブルのコンソールにに手を伸ばして、手早くベッドライトを点ける。暗めの橙色《アンバー》が部屋を満たして、ベッドの上の物体を浮かび上がらせた。私はそれに寄り添うようにして体を密着させ、不自然な姿勢で固まっている聖の体に腕を回す。
「さ、力抜いて。こっちに倒れて」
 聖は指示通りに力を抜いて、私に体を預けてきた。不用意な衝撃を与えないように、ゆっくりとシーツの上に聖の体を横たえさせると、ふいに聖の全身の筋肉がゆるんだ。ほーっと長いため息が聖の口から漏れて、必死の形相だった表情も和らいだ。
 横たわったときに荒かった呼吸は、時間が経つにつれてだんだんと規則正しくなっていく。
「大丈夫?」
 あまり気が利かない質問だとは承知の上で声をかける。
「……なんとか」
 聖はそう答えると、じりっとうつぶせに体勢を変えた。
「う~~~~…………」
 シーツに突っ伏して、聖は弱々しくうなり声を上げる。聖の後頭部から『ずずずずずず————ん』と、自己嫌悪に落ちていくBGMが聞こえてくるような気がする。
「よーこぉ……ゴメン」
 私の耳に届いた聖の声は、この上なく惨めったらしかった。
「疲れているのに、無理するからよ」
 私は苦笑まじりに言いながら、聖の髪に自分の指を通してくしゃりとかき回した。
「……で、どっちの足?」
「…………みぎ……」
 聖が答える。普段あまり痛みとかに耐えて(あるいは平気で)こちらに申告しない人がこれほど正直に言うのだから、よほど、それも半端なく痛かったようだ。
「そう」
 私はもう一方の手で、泡立てた生クリームの表面を触るかのように、そっと聖の右のふくらはぎをなでた。
「まだ、痛い?」
「……んにゃ、ずいぶん楽になってるけど」
「けど?」
「……」
 まだ痛いらしい。こんな時に私を気遣わなくていいのに。
 シーツに顔を隠すようにして突っ伏したままじっと横たわっている聖を、私はしばらく眺めていたが、ふと今日買ったとあるもののことを思い出して、ベッドから降りた。自分の旅行カバンを開けて中を探り、大小ふたつの紙袋を取り出す。
 ベッドに戻って小さいほうの紙袋を開ける。かさかさと乾いた音がする。取り出した透明の小瓶の中には、同じく透明の液体が入っていた。小瓶の外蓋を開け、さらに中蓋を開けると、つん、とした刺激臭が部屋を満たした。
 聖が、顔を上げる。
「なに? してんの?」
「塗ってあげようと思って」
 言いながら、私は小瓶の中身を、ほんの少し手に取った。
「薄荷《ハッカ》オイルなの。湿布とか持ってないから、応急処置でね」
 そのまま、聖の痛んでいるというふくらはぎにそろりと塗り広げる。
「冷たく、ないんだ」
 聖が言う。感触に驚いてはいるようだったが、聞こえてきた声はぼんやりくぐもっていた。
「そう? でも少ししたら冷や冷やしてくるわよ」
「そぉ……なんだかあったかい感じ」
「手、洗ってくるわね」
 私は聖の頭をなでると、再びベッドからおりてバスルームへと向かう。熱めの湯で手をよく洗い、それから、さらに熱くした湯を歯磨き用コップに半分入れて、ベッドに戻る。戻ってみると、聖がうつぶせになったまま、雨に濡れた子犬か子猫のような情けない顔で、私が帰ってくるのを待っていた。
「なぁに? そんなに反省しなくてもいいわよ」
 持ってきたコップをサイドテーブルに置きながら、思わず苦笑した。
「だって」
 反省はしているけど拗ねてもいる。そんな声が聞こえる。
「せっかくのハネムーンなのに」
「だからって言って、羽目を外しすぎたのよ。最近こんなに毎日はやってなかったでしょう?」
 苦笑まじりで言いながら、私はもう一つの、大きい方の紙包みを開けて、中から白いラベルを貼った茶色の瓶を取り出す。中はよく見えない。
 ふたつめの瓶の登場に、聖が上半身を浮かすように首をひねってこちらを見、興味を示した。
「何それ?」
「さて、なんでしょう」
 私は瓶の蓋を開け、中身をサイドテーブルに置いたコップの中に振り入れる。薄荷のにおいが収まっていた部屋の中に、今度はふんわりと花の香りが広がりはじめる。
「……あ」
「そうよ、今夜は眠らないとね」
「もしかして、昼間の……」
「そ、ラベンダー園で買ってたの」
「なにか熱心に見てると思ったら、それだったのね」
「あなた、たまに眠りが浅くて寝返りばかりしている時があるから。だからね」
 自分の人差し指の先にラベンダーオイルを一滴乗せて、聖の両方のこめかみに、香水をつける時のようにちょん、ちょん、と塗ってやる。
「痛みにもよく効くということだから、これでよく眠れるわよ」
「えー。もう痛くないから、続きをしよー」
 薄荷とラベンダー効果で痛みが引いているのか、聖は口をとがらせて言った。喉元過ぎれば熱さを忘れるのは佐藤聖クオリティの一つだけど、今夜ばかりは甘やかすわけにはいかない。
「ダメよ、今日はもう寝るの」
 私は、自分の指先に残ったラベンダーオイルを自分の手首に付けてこすりあわせながら、にべもなく言う。
「私は逃げないから。……ね」
 聖に寄り添って横になり、乱れた布団をお互いの体に掛ける。それからそっと聖の頭を抱いて、胸元に引き寄せた。
 ふわりとラベンダーの香りが私たちを包む。
 しばらくの間、聖は抵抗するかのようにもぞもぞと動いていたが、やがてそれもおとなしくなり、やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 聖の寝息が私の胸にかかる。それに小さな幸せを感じずにはいられない。
 私はゆっくり目をつぶった。
 明日の昼過ぎには東京の空の下。お互いの実家に寄って、お土産を届ける。どちらの家を先にしようか。きっとあとに訪問した家で夕食を食べることになるだろう。
 そして夜には私たちの家に帰る。
 明後日にはまたいつもの日常が始まるけれど、このラベンダーの香りは、いつでも私たちをこの地へ引き戻してくれるに違いない。
『なんだかおもしろい新婚旅行だったわね。』
 ラベンダーオイルが切れたら、また新婚旅行の続きをしに、来てもいいかも。
 ……ね。聖。
拍手送信フォーム
-text="【マリみてSS】『ラヴェンダー』 #STUDIO_L_Webん室【へっぽこ・ぽこぽこ書架】" data-via="Nikukiu_Shobou">Tweet-via="Nikukiu_Shobou">Tweet
Content design of reference source : PHP Labo