へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

木瓜 

木瓜 本文

 朝、目が覚めたのに、起きあがれなかった。目覚まし時計のアラームがやけに頭に響く。声を出そうと思ったが、喉が痛くてできなかった。
 アラームを止めようと思い、そちらのほうに腕を動かそうとして、体の節々が痛むのに気がついた。
 どうやら風邪を引いたらしい。
 思わず口から出た自分のため息が、なんだか弱々しく尾を引くのを聞いた。
 そう言えば、ちょうど一年前もたぶん同じ理由で風邪を引いた。それに思い至ったから出たため息だった。まったく。進歩がないったら。
 私は、横で寝ているであろう、この風邪の原因のひとつ(たぶん)に手を伸ばす。
 頭も痛いし喉も痛い。その上体中が痛いときて、布団の中を進んでいく腕が、やたら重くてもどかしい。果たして、私の指先は目標物に到達した。
「聖、起きてちょうだい、聖」
 彼女の髪を探り当てて、それをできるだけ強く引っぱる。そうでもしないと、今の私に聖を起こすことは不可能だろう。なにせ声は枯れきってて、ほとんど音として成り立っていないから。
「んー……なにー?よーこー……。あと5分ー……」
 布団の中をつたって、聖のくぐもった寝トボケ声が聞こえる。でも今日はいつもみたく寛容になれない。とにかく起きてもらわないと。
 私はできるかぎりの力を込めて、聖の肩あたりだろうところを、ぐい、と押した。手のひらに触った聖の体が冷たくて、ひどく気持ちよかった。
「蓉子。熱があるじゃない!」
 聖が跳ね起きる気配がする。私はほっと体の力を抜いた。
「ダメだよ。そのまま寝てちゃ」
 布団の中からうっすらと目を開けて声の方を見ると、聖が「パジャマ、パジャマ」と言いながら、ベッドの周りをうろうろしているのが見えた。
 ひとつはそのために起きてもらったのだけど、貴女も同じ姿でしょうに。まずは貴女の方から服を着なさいよ。
 心の中でそうツッコむ。
 やがて聖は、床に落ちている、私がいつもパジャマ代わりに着ている男物の白いシャツを見つけると、それを手にとって「うーん」とうなり、それからドタバタとタンスが置いてある方へと移動して、なにやら物色してから戻ってきた。
「蓉子のシャツ薄いから、今日はコレ着て」
 布団から目だけ出した私に差し出されたのは、芥子《からし》色の、聖のお気に入りのスエット上下だった。
「自分で着れる? 寒いから布団の中で着るといいよ。無理ならちょっと待ってて、部屋温めるし」
 タンスを物色した時にでも身につけたのだろう。聖はちゃっかりとジーンズを履いていた。ただし、上は生まれたままの姿だった。聖の二の腕に浮かんだ鳥肌を見ながら、私はのろのろと芥子色のスエットを受け取る。
「大丈夫よ。なんとかひとりで着れるわ」
 絞り出した声は、自分の耳でも、聞くも無惨なしゃがれ声だった。聖は盛大にしかめっ面になる。
「それ、大丈夫って言わないから。……なにか食べられそう?」
 私は首を横に一回《右》、二回《左》、三回《右》、と倒して、否やを伝えた。この動作だけでも頭がぐわんぐわんする。温めるために布団の中に引き込んだ、聖のスエットを思わず抱きしめた。なにかにしがみついていないと、体がどこかに流されてしまうんじゃないか、そんな感覚に陥ったからだった。
「……下着」
 私は聖の顔を見ながら言った。視界の中の聖は、なんだか水の中でたゆたっているよう。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
「ん?」
 聖はちょっと首をかしげて、すぐに「ああ」と思い当たったような声を上げた。
「そのまま着ちゃっていいから。今は体を楽にさせとかなきゃ」
 それはもっともだけど、そもそも体を解放しすぎて風邪を引いたも同然なのだから、少し引き締めると治りも早いんじゃないかしら。
「ホラ、いいから。さっさとスエット着ちゃって。もう温まってるでしょ?」
 あ、私が何をしてるか、わかってたのか。
 聖に急かされて、私はしぶしぶ布団の中でスエットを着た。裏起毛になったスエットの生地は柔らかくて、でもそれ以上に、きっちりと、あるべき殻に自分の体がきれいに収まった感じがして、私はひとここちつく。ふわり、と聖の香りが鼻をくすぐったように思ったが、何のことはない、最近使っている乾燥機用柔軟剤シートの匂いだった。その事実に気がついたのは、ひと眠りしてお昼過ぎに目が覚めた時だったけど。
 聖がキッチンを歩く音が聞こえる。トースターのタイマーがチリチリと音を立てている。コーヒーメーカーはお湯が沸いたようだ。コポコポという音とともに、かすかにコーヒーの香りらしきものも漂ってくる。
 朝の、それらのものモノを感じながら。私は、どうしてもあらがえない、まどろみの中に沈んでいった。
——聖。学校にはちゃんと行くのよ。
 沈んでいきながら、それだけはしっかりと考えていた。
 アラームが鳴らないうちに目が覚めた。
 うっすらとまぶたを開いて周囲を見る。まずは時計が視界に飛び込んでくる。緑のデジタル表示の数字は、12時37分を示していた。
——しまった。寝過ごした!!
 慌てて跳び起きると、頭がぐわん…と揺れた感じがして、視界が傾《かし》いだ。
 そうだった、風邪を引いて…。
 掛け布団の上にうずくまりながら、今朝の自分の状態と、聖とのやりとりを思い出した。
 それにしても、なんてことだろう。2年続けて同じ時期に同じ理由で風邪を引いたのみならず、今年は大学まで休んでしまうなんて。確か今日は外せない講義がひとつあったはず。
 しかし、とりあえず目が覚めた今も、眉間の奥にどうにもしようのない違和感がはりついていて、まぶたがきちんと開かない感じがするし、体もまだまだ何となく熱っぽい。たとえがんばって大学《がっこう》に行ったとしても、どのみち講義や演習に集中はできなかったろうから、今日は休んで正解なのだろう。体は正直ということか。
 そこまで考えてゆっくり頭を上げる。
 もしかしたら私の看病と理由をつけて、聖が自主休講《サボり》を決行したのではないかと思ったが、予想に反して、部屋には私以外に誰かいるような気配はなかった。
 頭がぐらつかない程度に首をめぐらせて周囲を見回す。カーテンはいつものようにレースのみではなく、外側の厚手が丁寧に引かれている。ほんの一部が透かし開けられた室内は明るすぎず、だからといって暗くてたまらないというほどでもなく、明け方のような落ち着いた明度を保っていた。
 どうやらこの明るさが、私の感覚を誤解させた犯人らしい。
 昨夜きっちりと内外《うちそと》二組《ふたくみ》のカーテンを閉めたのは私だから、この仕業《しわざ》はきっと聖だろう。こういうところは、ヘンに気が利く人だ。それだけ繊細ってことなんだろうけど。
 私はゆっくりとベッドから抜け出した。立ち上がるとき、体のそこかしこが鈍く痛んだ。まだまだ本調子にはほど遠いようだった。
 手洗いをすませてさらに顔を洗い(この時に、乾燥機用柔軟シートの香りがスエットについていたのだと気が付いて、なんとなく気恥ずかしさがこみ上げてきた)、それからキッチンへと向かった。今さらな感はあるが、できるだけ早く回復したいから、薬を飲もうと思った。そのためにはせめて飲み物だけでも胃に入れたい。
 いくつかある部屋のどこに足を踏み入れても、聖の気配は感じられなかった。どうやらまじめに大学に行ったらしい。それは私にとって喜ばしいことだったけれど、でもどこかで期待をしていたのだろうか、私は自分の気持ちが下降線をたどっていっているのを感じていた。なにかが、じわりと心を支配していく。
 これがいわゆる寂寥感であるということに気が付いたのは、キッチンのテーブルの上に用意されたものと、聖の書いたメモを発見した時だった。
『 蓉子へ
 
  目が覚めて、食べる気力があったら、
  スープ皿に牛乳をカップ1くらいを入れて、
  レンジでチンすること。
  たぶん「牛乳あたため×1杯」でOK。
  
  寝言にまでお説教されたので、
  今日は大人しく学校に行ってくるよ(笑)
  3限で終わりだから、早めに帰ってこれると思う。

                          聖 』
 メモにはご丁寧に、1回分の風邪薬がテープでがっちり固定してあった。私が薬に気がつかずにメモを取り上げて、うっかりキッチンのどこかに飛ばしてしまわないように貼りつけたのだろう。
 聖のこういう部分に触れるたびに、私は不思議な気分になる。どちらが本当の聖なのだろう。普段の、軟派で不真面目で気が抜けてて、ふわふわとクラゲのように漂っている聖と、驚くほど繊細で気が利いて、時に自分で自分を傷付けてしまうほど神経質な聖と。
 私は、聖が用意したパン粥の元——食パン約1/2枚を、一口大に切って何も付けずに焼いたもの。たぶんその下にはグラニュー糖がスプーン1杯分敷いてあると思われる——を入れたスープ皿に牛乳を入れながら、いつもの自問をした。そして、改めてラップを掛けたそれを電子レンジに入れ、牛乳のあたため機能のスイッチを押す頃には、いつもとおなじ答えを導き出す。
 きっと、たぶん。どっちも本当の聖なのよね、…と。
 機械的にパン粥を口に運ぶ。あたたかい牛乳は体に染みとおっていく感じがしたし、焼いたパンはほんのりと香ばしい香りをたてていたけれど、その他のそれ以上のものは何も感じられなかった。ただひたすらに平坦な味。
 まだ熱があるのかしらと、メモの横に置かれていた体温計に手を伸ばす。
 チチチ、とアラームがかすかに鳴る。それを取り出す時に、体温を測るのだったら食べる前にするべきだったことに思い至って、ちょっと落ち込んだ。
 小さな窓に表示されている数字は37度9分。私の普段の平熱は36度くらいだから、体のあちこちがどんよりしていて当たり前だわねと、自分を慰めてみる。でもあまり効果はなくて、よけいに落ち込んだ。今日はなにを考えてもダメな日らしい。
 聖が用意してくれてた薬は、解熱を主にした総合感冒薬だった。
 まずは熱を下げろということか。
 聖の行為をありがたく受け入れて、たっぷりの水でそれを飲んだ。そしてシンクに洗い物を置いて(ここで洗ったりしたら、あとで聖からたっぷり叱られるのは分かっているから、洗い桶に沈めておくだけだ)、私は体温計を握ってベッドに向かった。
 まだなんとなく体がフワフワとしている。ベッドに辿りついた時には、早々に薬が効いてきたらしく、どうしようもないほどの睡魔に背中からのっそりともたれかかられてしまった。私はそのままずるずると、崩れ落ちるようにしてベッドに潜り込んだ。
 玄関を扉を解錠する音がする。それで、また眠ってて、いま目が覚めたのだと気が付いた。湿った感じのやや甲高い音——それがこの家《アパート》の、玄関扉を開く時特有の音なのだ——がしたので、聖が帰ってきたのだと思った。すぐに「ただいま~」とちょっと間の抜けた聖の声が聞こえてきた。
 私はちらりと時計を見る。もう十分に夕方と言っていい時間になっていた。3限目で終わった割にはちょっと帰宅が遅い。どこで道草をしていたのかしらと考えていると、聖が寝室に入ってきて私をのぞき込んだ。
「ただいま、蓉子。……起きてるー?」
 聖の顔には「心配です」と大きく書いてあった。気持ちはわかるけど、そんなに不安な表情《かお》を見せないでよ。
「大丈夫よ。薬も飲んだし」
 聖を安心させるために思い切って喋ってみると、覚悟をしていた割には、すんなり声が出た。朝ほどかすれていないし、喉の痛みもかなり治まっていた。
「うん。見た見た。薬が効いたのかな?」
 聖はどうやら直接ではなく、キッチンを経由して来たらしい。にっこりと笑う。私の声を聞いて安心したようで、さっきの不安そうな表情はもう引っ込んでいる。
「そうそう、カトーさんにさ、いいもの貰ってきたんだー」
 聖はそう言うと、「ほら」と右手につまんだ小さなビニール袋を掲げて見せた。米くらいの大きさの、赤茶っぽい何かが入っている。
「これは?」
 私が興味を示すと、聖は「にひひー」と笑った。いたずらを思いついた子供のような顔だった。それとも私の調子が戻ってきているのが嬉しいのだろうか。
「赤米、って言うんだってー。フツーの白米よりずっと栄養が高いらしいよ?」
 聖の友人である加東さんは、数年前にご病気で倒れたお父さんの食生活の影響で、そういった方面に詳しいらしい。復学してひとり暮らしを始めてからも、ときおり自然食品を取り入れた生活をしているということだった。
「今日さ、運良く図書館で会ってさー。…で、蓉子のこと話したら、下宿に来いって言うから、ついて行ったらコレくれたー」
……。小さい子供か、アンタは。
 おそらく、元気がない聖に「どうしたの?」と加東さんが訊いて、それで聖がバカ正直に白状した。…というのが真相ではないだろうか。
 直感的にそう思ったけれど、心配の元凶は間違いなく自分なのだから、それは口にしなかった。
「治ったら加東さんにお礼を言わなきゃ」
「うん。ちょっと待ってて。すぐにお粥を作ってくるから」
 そう言って聖がバタバタとキッチンへ向かう。
 それを見届けてから、私はゆっくりベッドから起きあがり、お手洗いに行くために足を踏み出した。薬が効いたからか、1日ぐっすり寝たからか。昼のようなフワフワ感はなくなっていたし、頭もずいぶん軽くなっていた。
「ダメだよー、蓉子ー。寝てなくちゃー」
 私の足音に気がついたのだろう。聖がキッチンから間延びした声でとがめる。
 心配なのはわかるけれど、それは過保護というものでしょう。
 私が「お手洗いくらいは自由に行きたいわよ?」と軽い皮肉を込めて言うと、聖の「ああそう。悪い悪い。自然現象だもんね」と悪びれずに笑う声が聞こえてきた。そんな聖に肩をすくめて、それから私は用を済ませると、聖の言うように大人しくまたベッドへと戻っていった。
 ベッドに入って横にはなってみたが、今日一日よく寝たからか、それとも体の調子が戻ってきているからか、今度は睡魔がすり寄ってくることはなかった。昨夜から今日にかけての一連の出来事を思い出しながら、天井を見つめてひとり反省会をする。
 去年、同じ失敗はくり返すまいと心に誓ったのに。そう言えば数年前、リリアン女学園の高等部に通っていた時も、同じような時期に風邪を引いたような気がする。ということは、この時期は、私が風邪を引きやすい時期ということことだろうか。とにかく、来年また同じ時期に同じ理由(たぶん)で風邪を引いたら、それこそ「性懲りがない人」というレッテルを自分で貼って、自己嫌悪に陥りそうな気がする。それだけは絶対に避けたい。
 来年からはどうなるかまだ分からないが、大学の行事もゼミもちょうどこの頃はいろいろと忙しい。大学のスケジュールは、担当教授が替わったとか、よほどの方針変更がない限り、例年さほど変化がない。それはゼミに所属している先輩たちの様子だけでなく、今までの大学生活をふり返ってみても、容易に想像できる。それをこんなことで休んでしまうのは、とても不本意だ。誰かさんの言葉を借りるなら「やり直しを要求する」という感じだ。
 私は、この時期の夜に肌を露出したままでいるのは、聖がなんと言おうともあるいは拗ねようとも、極力避けようと決心した。
 私が誓いをあらたにしたとき、聖がドアの所から顔を出した。
「おまたせー」
「キッチンへ行くわよ?」
 私は体を起こしながら言ったが、聖は首を横に振った。
「持って来ちゃったから、そのままでいいよ。私も一緒に食べるし」
 聖は手に持ったテーブルトレーを、上体を起こしてベッドに座った私の前に置いた。
 トレーの上には一人前用の小さな土鍋とお粥が盛られたどんぶりがひとつ。レンゲがふたつ。溶き卵を醤油で味付けして煮たものが入っている小鉢がひとつ。私は、聖の分であろうどんぶりに盛られたお粥の色に、目を見張った。
「あら?」
「そう。面白い色でしょー? 私もびっくりした」
 米を水からじっくり炊きあげて作られたお粥(聖はごはんから作るお粥は好きじゃないらしく、かならず米から作るのだ)は、いつものように、美味しそうに炊きあがっていたけれど、ふだんは白いそれは、今日はうっすら赤い色になっていた。まるで小豆の少ないお赤飯をお粥にしたような。そんな色に。
「カトーさんがさ、初めて食べるならって、五分搗《ごぶづ》きにしてくれたんだけどさ。それでも皮の色がこんな出ちゃった」
「皮?…籾殻…じゃないわよね?」
「もみがら?」
 聖はよくわからない、という顔で首をかしげた。加東さんが搗《つ》いてくれたのなら籾殻のままなわけはない。玄米でいうところの糠《ぬか》の部分が赤茶色で、そこから色が出たのだろう。私は聖に訊いた。
「まだ、赤米って残ってる?」
「うん。あと2回くらいの分量があると思うけど?」
「じゃ、今度はふつうにごはんを炊いてみましょうよ。たぶん、お赤飯みたいな色になるんじゃないかしら?」
「あー。そっか。お粥でこれだけ色がつくんだもん。そうなるかもね」
 小豆の入っていない赤飯かー。聖はそう言ってカラカラと笑った。小豆が入っていなければお赤飯の味にはならないだろうが、雰囲気だけでも楽しめるかもしれない、とも言った。
「さ、冷めちゃうから、とっとと食べよう」
 聖は土鍋の蓋を取り、それから自分の分のどんぶりとレンゲを取り上げると、床に座り込んでベッドに背を預けた。
「聖、貴女の分の卵は?」
 聖の後頭部とトレーの上の小鉢を交互に見ながら私は訊いた。それに対する聖の答えは明快だった。
「ごはんでサンドイッチしてるから、大丈夫ー」
 なるほど、小鉢を汚すのが嫌で、どんぶりに「お粥・卵煮・お粥」の順番で盛っているらしい。聖らしい合理性にあきれつつ、私はレンゲを取り上げて、「いただきます」と手を合わせた。それに呼応して、すでに食べ始めていた聖も「はい、いただきます」と、口をもごもごさせながら言った。
 少しおしゃべりをいている間に、土鍋のお粥は食べごろくらいの熱さになっていた。私の嗜好をくんで、絶妙な四分粥に仕上がっている。
 よほど気が向かないと作らないが、腹が立つことに、聖の方が料理が上手い。それは欧米方面の家庭料理的なジャンル——いわゆるシンプルでどっさりというヤツ——が主で、和食はもっぱら私のほうが上だと聖は主張するのだけど、お粥は間違いなく聖の方が、私が作るそれよりも数倍おいしい。手順や作り方さらには炊き込み時間を比べてみても大きな違いはないのに、聖が作るお粥は、お米が適度に割れて、さらにふっくらと炊きあがっているのだ。
 だから最近では、お粥担当(休日の朝にお粥という日があったりする)は聖で、私はもっぱら聖が寝込んだ時にしかお粥はつくらない。病気のときこそおいしいものを食べたいだろうし食べさせてやりたいが、かわいそうなことに、お粥に関してはその要求に応えてあげることがまだまだできない。世の中ままならないものだ。
 とにかく今日は聖に感謝して、このお粥をありがたく食べることにする。調子がよくなってきたせいか、お腹が空いてきていた。
 私はレンゲに、うっすらお赤飯色の、それをすくって口に運んだ。
 ひとくち、口に入れる。
…………。
私は聖の方を見た。聖は後ろ姿からでもわかるように、自分で作ったお粥をむしゃむしゃ食べていた。背中が丸まって、なんだかコロンとしている。
 私はちょっと首をかしげて、さっきとは違う部分のお粥をすくうと、また口に入れる。
……塩辛い。それも激烈に。
 さらに小鉢の卵煮も食べてみる。こちらもお粥と同様に、ものすごく塩辛かった。
 私はレンゲをトレーに置いて、ベッドに背をあずけて相変わらずどんぶりの中身をもはもは食べている、なんだか丸い物体に声をかけた。
「……聖」
「んー?」
 ふり返った聖は、私がほとんど食べていないのに気が付くと、少し眉をひそめた。
「つらいの? やっぱ、食べらんない?」
 私は左手で額をおさえ、顔をすこし顰《しか》めて聖に言った。
「ええ…。まだちょっと熱があるみたいなの。体温計を取ってきてくれないかしら? キッチンのテーブルの上に置いたままだから」
「え…ああ」
 聖は自分が手にしているどんぶりとレンゲを私の前に置いてあるテーブルトレーの上に戻すと、それを取り上げて床に置き直した。それから、私が発熱した時にかならず一度はそうするように、自分の額でもって私との温度差を測ろうと近づいてきた。
 かかったわね。
 視界に聖以外のものが入ってこなくなったその瞬間を、私は的確にとらえて逃がさなかった。
 電光石火、聖の左手首を自分の右手でつかまえて、そのまま力任せに引き寄せた。額と額がぶつかった瞬間、左手でテキの後頭部を、逃げないように押さえ込む。にぶい音が寝室に響いてなかなかに額が痛かったけれど、そんなことは今はどうでもいいことだった。
 案の定、私と聖との体温差ははっきりしていた。
「聖! アンタの方がはるかに熱いじゃない!!」
 おもわず大きな声が出た。いきなり押さえつけられた聖が、じたばたともがいている。腕の力を抜くと、テキは勢い余ってごろんと後ろにひっくり返った。
「え? ……なになに?」
 聖は起きあがりながら目を白黒させている。
 私は枕の周辺をごそごそ探って体温計を掘り出すと、それを聖に突きつけた。
「とにかく、体温を測ってごらんなさい」
 私の迫力に押されて、聖はオドオドと体温計を受け取り、ケースから取り出してそれを自分の脇の下にはさみこむ。ピリピリとした空気がしばしの間流れた。
 やがて体温計がピピピと仕事を終えたことを告げる。聖はそろりとそれを取り出して、結果も見ずに私に差し出した。まるで飼い主に叱られた犬のようだ。しょげて垂れきった耳としっぽが見えるような気がする。私は怒ってなんかいなかったけれど、態度を硬化させたふりのまま、受け取った体温計の表示窓を見た。
 ため息が出た。
「…38度4分」
 どうりでお粥が塩辛かったはずだ。熱のために舌が麻痺しているのだろう。
「気がつかなかったの?」
 私はがっくりと肩の力を抜き、聖に体温計を見せながら言った。
「……うん。ぜんぜん」
 聖が体温計に示された結果をのぞき込みながら言う。耳としっぽはまだ垂れたままだ。そして結果に納得もしていないようで、とんでもないことを口にした。
「ていうか、この体温計、壊れているんじゃぁ——」
 そこまで言って、急に黙り込む。私から発せられた気配に気がついたらしい。こういうところは相変わらずカンがいい。
 わかりました。そんなに疑い深いなら、証拠を見せましょう。証拠を。
 私はいったん体温計をケースにもどして表示をリセットしたあと、自分の体温を測った。
 結果は36度7分。やや高めではあるけれど、おおむね元に戻っている。それを聖に突きつけた。
「どう?」
「……ごめんなさい」
「じゃ、バトンタッチね」
 私は自分が座っているベッドを指さした。
「その前にシーツを換えるから、そのあいだに着替えてて。そんなに元気なら自分で着替えられるでしょう?」
 着替えさせてくれとか言われる前に、釘を刺す。聖は見るからにがっかりした表情で言った。
「シャワー浴びてきていい?」
「ダメよ。熱があるんだから」
 私はベッドから起きあり、床に置かれたテーブルトレーを持ち上げた。
「一日外出したままで、布団にはいるの気持ち悪い」
 コンパなんかで酔っぱらって帰って、そのままベッドに侵入する人がそういうこと言うか。
「じゃ、熱いタオルを持ってきてあげるわ」
 キッチンへむかいつつ、私はにべもなく言った。今朝の私の発熱に気を取られて、自分の具合が悪くなっていったことに気がつかなかったのだろうし、事実を突きつけられてぐずっているだけだということは分かっているが、そうそういつもわがままを聞いてやるわけにはいかない。
 肩越しにちらりと睨《ね》めつけると目が合った。床にへたり込んで、これ以上は無理じゃないかと思われるほど小さくなった聖が、肩をすくめてさらに縮んだ。
 これ以上へこませるのも、かわいそうか。
 急いでキッチンのテーブルにトレーを置き、脱衣場にある洗面台で手早く熱い濡れタオルを3つ作る。それを持って寝室に戻ってきてみると、聖は相変わらず床で小さくなっていた。
「お願いだから、言うことをきいてちょうだい」
「………」
……本格的に拗ねたかしら?
 私はかがみ込んで、聖を覗のぞき込んだ。目を合わせると聖は、ぷい、と視線をそらす。
 もう、しょうがない人ね。
 私は手に持っている3つの熱いタオルを聖の手に握らせて、彼女の頬——唇のすぐ横——に軽く口づけて、聖を見る。唇を避けたのは、これでまたお互いが体調を悪くしないように、だ。
 聖の視線がちょっと泳いで、こちらを向いた。口はあいかわらずへの字だったが、目は照れたようにちょっと笑っている。それからのろのろと立ち上がって、脱衣場の方に歩いていった。
 私は新しいパジャマを用意して、聖を追いかけた。
 寝室の窓を全開にして、シーツを取り替えた。
 空気がよどんでいるような気がしていたし、なによりシーツを取り替える時にたつ埃を追い出したかったから。シーツは吸湿性のいいタオル地にした。掛け布団カバーも換えたかったけど、そこまでやるのは一人では大変だし、大がかりになるのでやめた。その代わりタオルケットを間に入れた。
 今そこに聖が収まっている。
 体を拭き、着替えたことで、気持ちがゆるんだのだろう。寝室にやってきた聖は、端《はた》から見てもわかるほど真っ赤な顔をして、足取りも少しおかしくなっていた。
 私は聖に薬を飲ませ、布団の中にねじ込んだ。、
 布団に入れられた当初、聖は私と一緒に寝るんだとブイブイ言っていたが、無視をしていたら急に大人しくなった。見ると、疲れが出たのか薬が効いてきたのか、ぐっすりと眠っていた。
 私はキッチンへ行き、残った赤米を少し入れて、お粥を炊いた。
 今晩は書斎のソファベッドで寝ようかと思ったけれど、聖の目が覚めたときに私がそばにいなかったら、ごそごそ探しに来るに決まっている。だから今日は寝室に客用の布団を運び込んで寝よう。
 できあがった、聖の作ったそれほどはおいしくない、お粥を口に運びながらそんなことを考えた。
 本音を言えば、今日はとても嬉しかった。聖が、スエットを貸してくれたことも、サボらずに学校へ行ったことも、薬や体温計を用意してくれたことも、お粥を作ってくれたことも。
 私が困っていたら、聖はいつも何も言わずに助けてくれるけど、それでもとても嬉しかったから。だから、ふたりの風邪が完治したら、どこか聖が行きたいところに出かけようか。
 明日にはたぶん回復しているだろうから、本格的な片づけものは明日することにして、私はシンクに鍋を置いて水を入れ、食器を洗い桶の水に浸けた。あまり広くはないシンクの中が、ごっちゃりと散らかっているけれど、しかたがない、と思うことにした。
 薬を飲み、布団を用意して寝室に行く。
 ベッドの横に布団を敷いて、ふと聖を見ると、相変わらずぐっすり眠っていた。少し汗ばんだ聖の額をタオルで軽く拭き、そこにキスを落としてから布団に潜り込む。まだ夜は始まったばかりだけど、することもないし、はやく風邪を退散させためには、さっさと寝るに限る。
 リモコンで電気を消して目をつぶり、治ったらどこに行こうかつらつら考えた。
 まだまだ春の気配は遠いけれど、すでにどこか、春を予感させる花が咲いているところがあるかもしれない。
 ふと、通学途中にある大きな家の生け垣から顔を出している、大きな寒木瓜《かんボケ》の木が脳裏に浮かんで、それから私は眠りに落ちた。
 翌朝 目が覚めてみると、私が寝ている布団の中にちゃっかり聖がいて、がっつりとお説教を食らわせたことは、また別のお話である。
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